拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
本日NHKで放送された[白鳳]という番組の録画を見て気になったこと。
この番組は、9/23日まで奈良国立博物館で開かれている同名の展覧会のPR番組だったようです。展示されている文化財の紹介よりもどちらかというと関連講演会の方が多かった。
この講演会で一つ気になる発言があったんですが
この番組は、9/23日まで奈良国立博物館で開かれている同名の展覧会のPR番組だったようです。展示されている文化財の紹介よりもどちらかというと関連講演会の方が多かった。
この講演会で一つ気になる発言があったんですが
PR
BSジャパンで放送されている「テレビ日経大人のOFF」の1/14放送分にて紹介されていた山梨県の温泉・慶雲館。
この温泉、なんと「世界最古の宿泊施設」としてギネスブックにも認定され、そしてその家伝が私にとっては非常に興味深い。
なお、タイトルが「「藤原」真人を~」となっているのは、藤原姓が誕生したのは669年。真人は3年前の666年に亡くなっており「藤原」姓になってないので各個付にしたというわけです。あ、でもこの伝説では更に先の705年まで生きてることになってるのか。
実はこの「藤原真人」という人物に非常に興味があって、ネットを始めた当初、彼の伝承がどれくらいあるのかというのを無謀にもネット検索で調べたことがある。今から約15年ほど前で、伝承を持つ寺は12か所。特に神戸市西部と奈良県桜井市の談山神社周辺に集中している傾向があった。
ところが今回のこの慶雲館は遠く離れた山梨県。しかも「藤原」真人は結婚までしているときた。
余りにも傾向とかけ離れた伝承。
しかも聖徳太子のような全国的メジャーな人物なら変形もわからんでもないがヾ(^^;)「藤原」真人みたいなどマイナーな人物がネタにされるとは…。
この伝説、学術的に検討は加えられているのだろうか。気になる。え?お前がやれ?!…と言われても手が回らん!ヾ(--;)
この温泉、なんと「世界最古の宿泊施設」としてギネスブックにも認定され、そしてその家伝が私にとっては非常に興味深い。
その昔、藤原真人がこの地方に流浪し「柳が島」に住んでいました。真人は土地の娘をめとり双児の兄弟をもうけました。「藤原真人」については、拙ブログを見ている人は知らない方が多いと思われるので、wikipediaのこちら参照。なんとあの藤原(中臣)鎌足の息子。実は坊様なのだよ。飛鳥時代にまだ浄土真宗はないはずなんだが、なんで結婚してるんだろヾ(^^;)
名を兄が四郎長磨、弟を六郎寿磨と名づけたといいます。
ある日、真人は狩猟の途中、湯川のほとりにさしかかった時、岩の間より盛んに噴き出している熱湯を偶然に発見したのです。
試みに入ってみたところ、神気爽快、四肢軽快今までの労れもすっかり治ってしまったので大変驚き、また喜びました。
その後、真人は険しい山の中に道を開き、湯つぼを造るなどして、「近隣に隠れた名湯あり」とまで諸村に伝えられるようになりました。
文武天皇の慶雲二年(西暦七○五年)三月のことでありました。
これが、西山温泉の起源と伝えられています。
http://www.keiunkan.co.jp/07_history/index.html
※下線は当方補足
なお、タイトルが「「藤原」真人を~」となっているのは、藤原姓が誕生したのは669年。真人は3年前の666年に亡くなっており「藤原」姓になってないので各個付にしたというわけです。あ、でもこの伝説では更に先の705年まで生きてることになってるのか。
実はこの「藤原真人」という人物に非常に興味があって、ネットを始めた当初、彼の伝承がどれくらいあるのかというのを無謀にもネット検索で調べたことがある。今から約15年ほど前で、伝承を持つ寺は12か所。特に神戸市西部と奈良県桜井市の談山神社周辺に集中している傾向があった。
ところが今回のこの慶雲館は遠く離れた山梨県。しかも「藤原」真人は結婚までしているときた。
余りにも傾向とかけ離れた伝承。
しかも聖徳太子のような全国的メジャーな人物なら変形もわからんでもないがヾ(^^;)「藤原」真人みたいなどマイナーな人物がネタにされるとは…。
この伝説、学術的に検討は加えられているのだろうか。気になる。え?お前がやれ?!…と言われても手が回らん!ヾ(--;)
藤原不比等五女-以下、「藤原郎女(ふじわらいらつめ)」と書くことにする。-は、藤原不比等最後の子供として生まれます。
母は、橘三千代…かも知れないし、別の「第四の女」が母親だった可能性もあります。推定生年慶雲元年以降養老5年(707年~721年)(^^;)
まだ幼い彼女にも早くから決められた婚約者がおりました。大伴古慈斐(おおとも・こじひ)。藤原郎女からすれば、父親にしてもおかしくない年齢でした。20歳から30歳近く離れていたのです。
まだむしろ、当時の大伴氏氏上・大伴旅人の長男、大伴家持の方が年齢が近い(養老元年(717年)生まれ)。
しかし、藤原郎女の婚約者が大伴古慈斐になったのは、『続日本紀』に書いてあるように大伴古慈斐の才能に父・藤原不比等が目を付けた可能性も高いでしょうね。
ところが、この当時の政治情勢は長屋王、藤原不比等の四子、橘諸兄…らが、次々と政権を握り、大伴氏・特に傍系の大伴古慈斐はあまり意見を言う機会に恵まれませんでした。大伴古慈斐は地方官を勤めることが多かったようです。
大伴古慈斐が政治に巻き込まれたのは、聖武太上天皇が亡くなり、世の中が不安定になった天平勝宝8年(756年)のことです。
彼はその頃出雲守でしたが、このような政治情勢の故、都の平城京に戻ってきておりました。
その時、淡海三船(おうみのみふね・大友皇子の孫)としゃべっていたのが命取りになります。二人は、今後の皇位継承に絡んで悪口を言ったという、それだけの理由で牢獄に放りこまれてしまうのです。
但し、大伴古慈斐が藤原不比等の娘を妻にしていたのが功を奏してか、すぐに釈放されます。
ただ、大伴古慈斐は出雲国より格下の土佐国の守となります。そのためか、大伴家持は「淡海三船の舌禍に巻き込まれて、古慈斐だけが悲惨な目に合った」という誤解をし、そういう気持ちを歌った和歌も残しております。
更に悲惨なのはその翌年の天平宝字元年(757年)です。「橘奈良麻呂の変」がおき、土佐国にいた大伴古慈斐は連座して、そのまま解任されて土佐国に島流しになるのです。この罪は、それから10年以上解かれませんでした。「藤原不比等の娘を妻にしている」ということで、発言力が大きくなりそうなのが逆に恐れられたかも知れません。
結局、大伴古慈斐が許されたのは宝亀元年(770年)。大伴古慈斐はもうよぼよぼの年寄りになっておりました。それでも、その博学ぶりは大変な物で、光仁天皇は彼を従三位にまで上げ重用しますが、7年後に83歳の高齢で亡くなります。
もし、このころ藤原郎女が生きていたとすれば、60歳前後になっていたと思われますが、全く記録は残っておりませんし、大伴古慈斐の子供達の消息も不明です。
しかし、夫が生きている間に名誉回復したというだけでも、藤原郎女はまだ恵まれている方でしょう。
また、大伴古慈斐にとっても、藤原不比等の娘を妻とすることで出世を狙ったのでしょうが、逆に政争に巻き込まれ、波乱の生涯を送ることとなりました。
以上で、橘三千代とその娘達の生涯を語り終えました。
子供達を政略結婚などで利用し、のし上がっていった橘三千代は、もしかしたら、藤原不比等以上の陰謀家だったように思います。
しかし、そういう母親を持てば子供は不幸になるという典型的な例ですね。
その運命に抗して生きた彼女たちは、それぞれにすごいと私は思うのですが…。皆様はどうお感じになられましたか?
<参考文献>
『奈良朝官人社会の研究』高島正人 (吉川弘文館)
『藤原仲麻呂』 岸俊男 (吉川弘文館)
『古代王権と女性たち』 横田健一 (吉川弘文館)
『飛鳥奈良時代の研究』 直木孝次郎(吉川弘文館)
『古代史を飾る女人像』 黛敏道 (講談社学術文庫)
『奈良朝政治と皇位継承』木本好信 (高科書店)
『律令社会の諸相』 角田文衛 (角田文衛著作集3・吉川弘文館)
「藤原房前と”左大臣家”」中西康裕(『続日本紀研究』)
『長屋王の謎』 森田梯 (草思社)
『奈良朝政争史』 中川収 (歴史新書)
おしまい。
母は、橘三千代…かも知れないし、別の「第四の女」が母親だった可能性もあります。推定生年慶雲元年以降養老5年(707年~721年)(^^;)
まだ幼い彼女にも早くから決められた婚約者がおりました。大伴古慈斐(おおとも・こじひ)。藤原郎女からすれば、父親にしてもおかしくない年齢でした。20歳から30歳近く離れていたのです。
まだむしろ、当時の大伴氏氏上・大伴旅人の長男、大伴家持の方が年齢が近い(養老元年(717年)生まれ)。
しかし、藤原郎女の婚約者が大伴古慈斐になったのは、『続日本紀』に書いてあるように大伴古慈斐の才能に父・藤原不比等が目を付けた可能性も高いでしょうね。
ところが、この当時の政治情勢は長屋王、藤原不比等の四子、橘諸兄…らが、次々と政権を握り、大伴氏・特に傍系の大伴古慈斐はあまり意見を言う機会に恵まれませんでした。大伴古慈斐は地方官を勤めることが多かったようです。
大伴古慈斐が政治に巻き込まれたのは、聖武太上天皇が亡くなり、世の中が不安定になった天平勝宝8年(756年)のことです。
彼はその頃出雲守でしたが、このような政治情勢の故、都の平城京に戻ってきておりました。
その時、淡海三船(おうみのみふね・大友皇子の孫)としゃべっていたのが命取りになります。二人は、今後の皇位継承に絡んで悪口を言ったという、それだけの理由で牢獄に放りこまれてしまうのです。
但し、大伴古慈斐が藤原不比等の娘を妻にしていたのが功を奏してか、すぐに釈放されます。
ただ、大伴古慈斐は出雲国より格下の土佐国の守となります。そのためか、大伴家持は「淡海三船の舌禍に巻き込まれて、古慈斐だけが悲惨な目に合った」という誤解をし、そういう気持ちを歌った和歌も残しております。
更に悲惨なのはその翌年の天平宝字元年(757年)です。「橘奈良麻呂の変」がおき、土佐国にいた大伴古慈斐は連座して、そのまま解任されて土佐国に島流しになるのです。この罪は、それから10年以上解かれませんでした。「藤原不比等の娘を妻にしている」ということで、発言力が大きくなりそうなのが逆に恐れられたかも知れません。
結局、大伴古慈斐が許されたのは宝亀元年(770年)。大伴古慈斐はもうよぼよぼの年寄りになっておりました。それでも、その博学ぶりは大変な物で、光仁天皇は彼を従三位にまで上げ重用しますが、7年後に83歳の高齢で亡くなります。
もし、このころ藤原郎女が生きていたとすれば、60歳前後になっていたと思われますが、全く記録は残っておりませんし、大伴古慈斐の子供達の消息も不明です。
しかし、夫が生きている間に名誉回復したというだけでも、藤原郎女はまだ恵まれている方でしょう。
また、大伴古慈斐にとっても、藤原不比等の娘を妻とすることで出世を狙ったのでしょうが、逆に政争に巻き込まれ、波乱の生涯を送ることとなりました。
以上で、橘三千代とその娘達の生涯を語り終えました。
子供達を政略結婚などで利用し、のし上がっていった橘三千代は、もしかしたら、藤原不比等以上の陰謀家だったように思います。
しかし、そういう母親を持てば子供は不幸になるという典型的な例ですね。
その運命に抗して生きた彼女たちは、それぞれにすごいと私は思うのですが…。皆様はどうお感じになられましたか?
<参考文献>
『奈良朝官人社会の研究』高島正人 (吉川弘文館)
『藤原仲麻呂』 岸俊男 (吉川弘文館)
『古代王権と女性たち』 横田健一 (吉川弘文館)
『飛鳥奈良時代の研究』 直木孝次郎(吉川弘文館)
『古代史を飾る女人像』 黛敏道 (講談社学術文庫)
『奈良朝政治と皇位継承』木本好信 (高科書店)
『律令社会の諸相』 角田文衛 (角田文衛著作集3・吉川弘文館)
「藤原房前と”左大臣家”」中西康裕(『続日本紀研究』)
『長屋王の謎』 森田梯 (草思社)
『奈良朝政争史』 中川収 (歴史新書)
おしまい。
私は、今まで何回も出した系図で、以下のように書いて参りました。
賀茂比売
│ ┌藤原宮子(長女・文武天皇夫人)
├─────┤
│ └藤原長娥子(次女・長屋王妃)
藤原不比等
│ ┌藤原安宿媛(=光明皇后・三女・聖武天皇皇后)
├─────┼藤原吉日(四女・橘諸兄妻)
│ └<藤原殿刀自(五女・大伴古慈斐妻)>
県犬養橘三千代
実は、最後に残ったこの「藤原殿刀自」と言う女性が、橘三千代の娘かどうか?いや藤原不比等の娘であるかどうかも非常に怪しいのであります。
以下、学説紹介になってしまうのですが…。
『続日本紀』宝亀8年条に、ある高齢の貴族の死が詳細に紹介されております。彼の名は「大伴古慈斐」。大伴家持の又従兄弟に当たる、優秀な貴族でした。しかし、何回も陰謀に巻き込まれ、流刑になります。約15年後に無実の罪がはれ、光仁天皇に救い出されて従三位の高位で人生を終えました。
-実は、彼が藤原不比等の娘を妻にしていたというのです。
角田文衛氏は「藤原不比等の娘たち」という論文で、詳細に分かっている藤原宮子・光明皇后 以外 の不比等の娘について研究し、
『続日本紀』神亀元年条・藤原長娥子→長屋王妃
『続日本紀』天平11年条・藤原吉日 →橘諸兄妻
としました。彼女達は夫の叙位と同時に叙位を受けているからです。
その考察の中に問題の
『続日本紀』天平19年条・藤原殿刀自→大伴古慈斐妻
があるわけです。
何が問題かというと、長娥子と吉日は夫より官位がやや低めであります。
他の女性達で夫が分かる人の官位を調べてみても、やはり夫よりはやや官位が低めであります。
例を挙げれば、藤原不比等の妻・橘三千代は
養老4年時点で 藤原不比等:正二位 橘三千代:正三位 でしたね。
ところが!この「藤原殿刀自」と言う女性は、この時同時に叙位を受けた大伴古慈斐より官位がずっと上なのであります。
大伴古慈斐:正五位上 藤原殿刀自:正四位上
これじゃあ、殿刀自が大伴古慈斐の妻とは考えにくい!
で、新たな見解を示したのが高島正人氏の『奈良朝官人社会の研究』の中の一文なのです。
「藤原殿刀自は藤原宇合(藤原不比等の三男)の娘で、この時に聖武天皇の後宮に妃として上がったが、後宮のメンバーには定員がある。
皇后:一名→光明皇后
妃 :二名→欠員(皇族出身であることが条件)
夫人:四名→県犬養広刀自、南殿、北殿、橘古那可智
嬪 :四名→欠員
こういう状況だったので、殿刀自は本当は夫人になりたかったのに、位が下の嬪にしかなれなかった。そのために、「正四位上」という夫人相当の官位を与えて優遇したのではないか?」
ただ、この考えも難がないわけでは無くって、聖武天皇の后は全員没年の記載が『続日本紀』に載っているのに、この藤原殿刀自は、この天平19年条にしか出てきません。
「藤原殿刀自」が藤原不比等五女である可能性は「?」と言うことを分かって頂けたと思いますが、では、この藤原不比等五女が橘三千代との間に生まれた娘である可能性についてはどうでしょうか?
光明皇后、藤原吉日の項でも何回も述べてきましたが、橘三千代はかなりの高齢出産をしています。
藤原安宿媛(光明皇后)701年生まれ:橘三千代推定36歳~38歳
藤原吉日 推定702~5年生まれ:橘三千代推定37歳~42歳
まさか(^^;)と言うこともありますけど、出産に伴う危険が現在の何倍以上になる奈良時代では、吉日の下に更に子供を三千代が生んだ可能性は薄いのではないでしょうか?
…と、ここで終わってはあまりなので(^^;)
藤原不比等五女の一生を簡単に見てみましょう。
つづく
賀茂比売
│ ┌藤原宮子(長女・文武天皇夫人)
├─────┤
│ └藤原長娥子(次女・長屋王妃)
藤原不比等
│ ┌藤原安宿媛(=光明皇后・三女・聖武天皇皇后)
├─────┼藤原吉日(四女・橘諸兄妻)
│ └<藤原殿刀自(五女・大伴古慈斐妻)>
県犬養橘三千代
実は、最後に残ったこの「藤原殿刀自」と言う女性が、橘三千代の娘かどうか?いや藤原不比等の娘であるかどうかも非常に怪しいのであります。
以下、学説紹介になってしまうのですが…。
『続日本紀』宝亀8年条に、ある高齢の貴族の死が詳細に紹介されております。彼の名は「大伴古慈斐」。大伴家持の又従兄弟に当たる、優秀な貴族でした。しかし、何回も陰謀に巻き込まれ、流刑になります。約15年後に無実の罪がはれ、光仁天皇に救い出されて従三位の高位で人生を終えました。
-実は、彼が藤原不比等の娘を妻にしていたというのです。
角田文衛氏は「藤原不比等の娘たち」という論文で、詳細に分かっている藤原宮子・光明皇后 以外 の不比等の娘について研究し、
『続日本紀』神亀元年条・藤原長娥子→長屋王妃
『続日本紀』天平11年条・藤原吉日 →橘諸兄妻
としました。彼女達は夫の叙位と同時に叙位を受けているからです。
その考察の中に問題の
『続日本紀』天平19年条・藤原殿刀自→大伴古慈斐妻
があるわけです。
何が問題かというと、長娥子と吉日は夫より官位がやや低めであります。
他の女性達で夫が分かる人の官位を調べてみても、やはり夫よりはやや官位が低めであります。
例を挙げれば、藤原不比等の妻・橘三千代は
養老4年時点で 藤原不比等:正二位 橘三千代:正三位 でしたね。
ところが!この「藤原殿刀自」と言う女性は、この時同時に叙位を受けた大伴古慈斐より官位がずっと上なのであります。
大伴古慈斐:正五位上 藤原殿刀自:正四位上
これじゃあ、殿刀自が大伴古慈斐の妻とは考えにくい!
で、新たな見解を示したのが高島正人氏の『奈良朝官人社会の研究』の中の一文なのです。
「藤原殿刀自は藤原宇合(藤原不比等の三男)の娘で、この時に聖武天皇の後宮に妃として上がったが、後宮のメンバーには定員がある。
皇后:一名→光明皇后
妃 :二名→欠員(皇族出身であることが条件)
夫人:四名→県犬養広刀自、南殿、北殿、橘古那可智
嬪 :四名→欠員
こういう状況だったので、殿刀自は本当は夫人になりたかったのに、位が下の嬪にしかなれなかった。そのために、「正四位上」という夫人相当の官位を与えて優遇したのではないか?」
ただ、この考えも難がないわけでは無くって、聖武天皇の后は全員没年の記載が『続日本紀』に載っているのに、この藤原殿刀自は、この天平19年条にしか出てきません。
「藤原殿刀自」が藤原不比等五女である可能性は「?」と言うことを分かって頂けたと思いますが、では、この藤原不比等五女が橘三千代との間に生まれた娘である可能性についてはどうでしょうか?
光明皇后、藤原吉日の項でも何回も述べてきましたが、橘三千代はかなりの高齢出産をしています。
藤原安宿媛(光明皇后)701年生まれ:橘三千代推定36歳~38歳
藤原吉日 推定702~5年生まれ:橘三千代推定37歳~42歳
まさか(^^;)と言うこともありますけど、出産に伴う危険が現在の何倍以上になる奈良時代では、吉日の下に更に子供を三千代が生んだ可能性は薄いのではないでしょうか?
…と、ここで終わってはあまりなので(^^;)
藤原不比等五女の一生を簡単に見てみましょう。
つづく
天平17年(745年)、5年ぶりに平城京が都に復帰します。
しかし、今度は難波京に行幸した聖武天皇が危篤に陥ります。聖武が亡くなれば阿倍内親王が即位するでしょう。しかし、その後は?
-この極めて不安定な状態の中で、大変なことを考えていたのが橘諸兄と藤原吉日の一人息子・橘奈良麻呂です。橘奈良麻呂と阿倍内親王皇太子は従兄弟の関係ですが、奈良麻呂の父・橘諸兄と阿倍内親王の母・光明皇后が既に仲が悪いのですから、この二人の仲も悪かったと思われます。
美務王
├───橘諸兄
橘三千代 ├───橘奈良麻呂
│ ┌藤原吉日
├──┤
│ └光明皇后─阿倍内親王
藤原不比等
奈良麻呂は何と、阿倍内親王を廃して他の皇子を天皇にしようという企てを計画していたのです。奈良麻呂が天皇にしようとしたのは、藤原氏に自殺に追い込まれた長屋王の遺児・黄文王と安宿王でした。…しかし、この二人の母も藤原氏出身ですから…かなり奈良麻呂追いつめられていますね。
天平20年(748年)元正太上天皇が亡くなったタイミングで、奈良麻呂は反乱を起こそうとしたようです。しかし、既に述べたように、奈良麻呂の計画はあまりにも危険な物だったことから余り賛同者が集まらなかったようで、未遂に終わっております。
ちなみに、息子がこんなとんでもないことを企んでいるとは橘諸兄も藤原吉日も気がつかなかったようであります。
このころ、橘諸兄の政治地位はますます低下をたどっておりました。
「大仏」こと廬舎那仏建立が東大寺で始まっておりましたが、諸兄は余りこの事業が関心がなかったように、私には見えます。
しかし、既に「光明皇后」の所でも述べたように、聖武天皇はこの廬舎那仏建立にすべてをかけておりました。実は、この聖武天皇の気持ちを利用したのが藤原仲麻呂であります。
廬舎那仏建立は大変な難事業で、困難を極めていました。さすがの聖武天皇もくじけかけたときに、「大仏建立を成功させよう」という神託を下した神社がありました。九州の宇佐神宮であります。聖武天皇は感激し、宇佐神宮の神官や巫女にも官位が授けられ、もちろん宇佐神宮にはたくさんの領地が寄進され、仲介役の藤原乙麻呂も従五位下だったのが一気に従三位になっております。しかし、この神託は「うそ」だったのです。
藤原仲麻呂の弟・藤原乙麻呂が兄の意を受けて宇佐神宮と取引をしたのであります。
それに気がついた橘諸兄は直ちに反撃します。
…が、結果は宇佐神宮から領地の返上があり、神官や巫女の位を奪っただけ。
この不始末で、藤原仲麻呂が責められることはなく、藤原乙麻呂も従三位のままでした。
橘諸兄は、この時「正一位・左大臣」でありました。藤原不比等や、長屋王さえついたこと無い…いや、今までだれもついたことのない極官を極めていたのです。
-しかし、その実体はこんなに寂しい物でありました。
天平感宝元年(749年)、聖武天皇は阿倍内親王に位を譲り、太上天皇となります。この年、藤原吉日は従三位となります。
しかしこの昇進も、阿倍内親王の即位を快く思わない橘諸兄に「妻の昇進」という恩義を売って文句を言わせない光明皇后の作戦であったかも知れません(※橘諸兄は既に「正一位・左大臣」であるため、これ以上の昇進はない)。
その翌年、橘諸兄に「朝臣」の姓(かばね)が送られます。今まで橘氏は「宿禰」(すくね)だったので、ワンランクアップしたことになります。しかし、これも「姓のランクアンプ」という恩義を売って橘諸兄に文句を言わせない光明皇后の作戦でありましょう。
橘諸兄はその後ほとんど政界に力を及ぼすことはなかったと考えられます。
天平勝宝8年(756年)には、ついに自ら辞表を出し、本当に政界から引退してしまいます。
前年・天平勝宝7年(755年)に酒席で酔っぱらった勢いで言った聖武太上天皇に対する悪口が原因であったと『続日本紀』は伝えます。
橘諸兄が辞職した天平勝宝8年(756年)、聖武太上天皇は亡くなります。
その翌年天平勝宝9年(757年)、橘諸兄も亡くなります。位極官を極めた人間としては極めて寂しい最後でした。
橘諸兄が亡くなるとすぐに、ライバルだった藤原仲麻呂は「紫微令」と名乗っていた役職を「紫微内相(しびないしょう)」と変えます。正式な役職には就いていなかったものの隠然たる権力を持っていた藤原鎌足(内臣)、藤原房前(内臣)にあやかった物と考えられております。
しかも陰謀を巡らして、皇太子さえ自分の都合のいい人物に変えてしまいます(これについては「光明皇后」の所で既述)。
これを一番怒って見ていたのが、橘諸兄の遺児・藤原吉日の息子、橘奈良麻呂です。彼は、数年前の元正太上天皇が亡くなったときに実行し損ねた計画を再び実行しようとするのです。
今度は失敗できません。長屋王の遺児・黄文王、安宿王の他に、新田部親王の子で聖武太上天皇の婿・塩焼王と、その弟道祖王、その他、佐伯氏、大伴氏で武勇に優れた!といわれた人にはすべて声をかけました。
しかし、この陰謀は意外なところから発覚します。橘諸兄に仕えた佐味宮守と黄文王・安宿王の弟の山背王から密告されたのです。
さすがに、光明皇后も自分の甥を殺すのは忍びなく助命を行いますが、藤原仲麻呂は、彼らを拷問の末殺します。「橘奈良麻呂の変」と言われた大クーデター計画の、あっけない最後でした。助かったのは塩焼王だけでした。
実は、不思議なことにこの変の首謀者である橘奈良麻呂の行方について『続日本紀』は何も書いておりません。「助かった」という説もあるようですが、藤原仲麻呂が失脚した後に名誉回復した形跡が全くないことなどから考えると、やはり獄死したのでしょう。それもおそらく『続日本紀』が書けないくらいの酷いやり方で…。
橘奈良麻呂には3人の息子がいたようですが、名前を除き、詳細は不明です。
橘氏が歴史の表舞台に出てくるのは、何とこれから約50年後に奈良麻呂の孫・橘嘉智子が嵯峨天皇の皇后になるのを待つことになります。
あれ?藤原吉日の事をすっかり書くのを忘れておりました(^^ゞ。
実は、天平感宝元年(749年)に従三位になったのを最後に、藤原吉日は史料から姿を消してしまうのです。
天平感宝元年以降に、夫・橘諸兄に先立って亡くなったとも考えられます。
しかし!私にはそう思えないのです。光明皇后は「橘奈良麻呂の変」で、御自ら奈良麻呂の助命を行っております。が、光明皇后は橘諸兄とは仲が悪く、本来なら橘奈良麻呂なんてどうなってもかまわない!と思っていてもおかしくない人物でもあるのです。しかし、実際の所は光明皇后は甥の助命をしているのです。
これはやはり、光明皇后の妹・藤原吉日が存命だった故ではないでしょうか?
が、この仮説で行くと、藤原吉日は夫の失意の死と、息子の悲劇的な最後を一年の間に2度も見届ける…と言う哀れな運命にあったことになるのです。
私の心情としては、吉日がそうなったとは思いたくないのですが…。
藤原吉日は、母親・橘三千代の政略の結果対立した姉・光明皇后と夫・橘諸兄の争いに巻き込まれ、最後は最も不幸な運命に落とされた悲劇の女性であったといえましょう。
次回は”藤原殿刀自”藤原不比等の五女をお送りします。
しかし、今度は難波京に行幸した聖武天皇が危篤に陥ります。聖武が亡くなれば阿倍内親王が即位するでしょう。しかし、その後は?
-この極めて不安定な状態の中で、大変なことを考えていたのが橘諸兄と藤原吉日の一人息子・橘奈良麻呂です。橘奈良麻呂と阿倍内親王皇太子は従兄弟の関係ですが、奈良麻呂の父・橘諸兄と阿倍内親王の母・光明皇后が既に仲が悪いのですから、この二人の仲も悪かったと思われます。
美務王
├───橘諸兄
橘三千代 ├───橘奈良麻呂
│ ┌藤原吉日
├──┤
│ └光明皇后─阿倍内親王
藤原不比等
奈良麻呂は何と、阿倍内親王を廃して他の皇子を天皇にしようという企てを計画していたのです。奈良麻呂が天皇にしようとしたのは、藤原氏に自殺に追い込まれた長屋王の遺児・黄文王と安宿王でした。…しかし、この二人の母も藤原氏出身ですから…かなり奈良麻呂追いつめられていますね。
天平20年(748年)元正太上天皇が亡くなったタイミングで、奈良麻呂は反乱を起こそうとしたようです。しかし、既に述べたように、奈良麻呂の計画はあまりにも危険な物だったことから余り賛同者が集まらなかったようで、未遂に終わっております。
ちなみに、息子がこんなとんでもないことを企んでいるとは橘諸兄も藤原吉日も気がつかなかったようであります。
このころ、橘諸兄の政治地位はますます低下をたどっておりました。
「大仏」こと廬舎那仏建立が東大寺で始まっておりましたが、諸兄は余りこの事業が関心がなかったように、私には見えます。
しかし、既に「光明皇后」の所でも述べたように、聖武天皇はこの廬舎那仏建立にすべてをかけておりました。実は、この聖武天皇の気持ちを利用したのが藤原仲麻呂であります。
廬舎那仏建立は大変な難事業で、困難を極めていました。さすがの聖武天皇もくじけかけたときに、「大仏建立を成功させよう」という神託を下した神社がありました。九州の宇佐神宮であります。聖武天皇は感激し、宇佐神宮の神官や巫女にも官位が授けられ、もちろん宇佐神宮にはたくさんの領地が寄進され、仲介役の藤原乙麻呂も従五位下だったのが一気に従三位になっております。しかし、この神託は「うそ」だったのです。
藤原仲麻呂の弟・藤原乙麻呂が兄の意を受けて宇佐神宮と取引をしたのであります。
それに気がついた橘諸兄は直ちに反撃します。
…が、結果は宇佐神宮から領地の返上があり、神官や巫女の位を奪っただけ。
この不始末で、藤原仲麻呂が責められることはなく、藤原乙麻呂も従三位のままでした。
橘諸兄は、この時「正一位・左大臣」でありました。藤原不比等や、長屋王さえついたこと無い…いや、今までだれもついたことのない極官を極めていたのです。
-しかし、その実体はこんなに寂しい物でありました。
天平感宝元年(749年)、聖武天皇は阿倍内親王に位を譲り、太上天皇となります。この年、藤原吉日は従三位となります。
しかしこの昇進も、阿倍内親王の即位を快く思わない橘諸兄に「妻の昇進」という恩義を売って文句を言わせない光明皇后の作戦であったかも知れません(※橘諸兄は既に「正一位・左大臣」であるため、これ以上の昇進はない)。
その翌年、橘諸兄に「朝臣」の姓(かばね)が送られます。今まで橘氏は「宿禰」(すくね)だったので、ワンランクアップしたことになります。しかし、これも「姓のランクアンプ」という恩義を売って橘諸兄に文句を言わせない光明皇后の作戦でありましょう。
橘諸兄はその後ほとんど政界に力を及ぼすことはなかったと考えられます。
天平勝宝8年(756年)には、ついに自ら辞表を出し、本当に政界から引退してしまいます。
前年・天平勝宝7年(755年)に酒席で酔っぱらった勢いで言った聖武太上天皇に対する悪口が原因であったと『続日本紀』は伝えます。
橘諸兄が辞職した天平勝宝8年(756年)、聖武太上天皇は亡くなります。
その翌年天平勝宝9年(757年)、橘諸兄も亡くなります。位極官を極めた人間としては極めて寂しい最後でした。
橘諸兄が亡くなるとすぐに、ライバルだった藤原仲麻呂は「紫微令」と名乗っていた役職を「紫微内相(しびないしょう)」と変えます。正式な役職には就いていなかったものの隠然たる権力を持っていた藤原鎌足(内臣)、藤原房前(内臣)にあやかった物と考えられております。
しかも陰謀を巡らして、皇太子さえ自分の都合のいい人物に変えてしまいます(これについては「光明皇后」の所で既述)。
これを一番怒って見ていたのが、橘諸兄の遺児・藤原吉日の息子、橘奈良麻呂です。彼は、数年前の元正太上天皇が亡くなったときに実行し損ねた計画を再び実行しようとするのです。
今度は失敗できません。長屋王の遺児・黄文王、安宿王の他に、新田部親王の子で聖武太上天皇の婿・塩焼王と、その弟道祖王、その他、佐伯氏、大伴氏で武勇に優れた!といわれた人にはすべて声をかけました。
しかし、この陰謀は意外なところから発覚します。橘諸兄に仕えた佐味宮守と黄文王・安宿王の弟の山背王から密告されたのです。
さすがに、光明皇后も自分の甥を殺すのは忍びなく助命を行いますが、藤原仲麻呂は、彼らを拷問の末殺します。「橘奈良麻呂の変」と言われた大クーデター計画の、あっけない最後でした。助かったのは塩焼王だけでした。
実は、不思議なことにこの変の首謀者である橘奈良麻呂の行方について『続日本紀』は何も書いておりません。「助かった」という説もあるようですが、藤原仲麻呂が失脚した後に名誉回復した形跡が全くないことなどから考えると、やはり獄死したのでしょう。それもおそらく『続日本紀』が書けないくらいの酷いやり方で…。
橘奈良麻呂には3人の息子がいたようですが、名前を除き、詳細は不明です。
橘氏が歴史の表舞台に出てくるのは、何とこれから約50年後に奈良麻呂の孫・橘嘉智子が嵯峨天皇の皇后になるのを待つことになります。
あれ?藤原吉日の事をすっかり書くのを忘れておりました(^^ゞ。
実は、天平感宝元年(749年)に従三位になったのを最後に、藤原吉日は史料から姿を消してしまうのです。
天平感宝元年以降に、夫・橘諸兄に先立って亡くなったとも考えられます。
しかし!私にはそう思えないのです。光明皇后は「橘奈良麻呂の変」で、御自ら奈良麻呂の助命を行っております。が、光明皇后は橘諸兄とは仲が悪く、本来なら橘奈良麻呂なんてどうなってもかまわない!と思っていてもおかしくない人物でもあるのです。しかし、実際の所は光明皇后は甥の助命をしているのです。
これはやはり、光明皇后の妹・藤原吉日が存命だった故ではないでしょうか?
が、この仮説で行くと、藤原吉日は夫の失意の死と、息子の悲劇的な最後を一年の間に2度も見届ける…と言う哀れな運命にあったことになるのです。
私の心情としては、吉日がそうなったとは思いたくないのですが…。
藤原吉日は、母親・橘三千代の政略の結果対立した姉・光明皇后と夫・橘諸兄の争いに巻き込まれ、最後は最も不幸な運命に落とされた悲劇の女性であったといえましょう。
次回は”藤原殿刀自”藤原不比等の五女をお送りします。