拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
台風21号。
関空は水浸し+唯一の連絡橋にタンカーが衝突して当分使えなさそう+ついでに公式HP繋がらないヽ(`Д´)ノ
阪神甲子園駅やJR京都駅の屋根は飛ぶ(○。○)※死人がいないというのが奇跡
南海の方ではショートで丸焼けになった駅もあるようなんですが…
皆様如何でしょうか。
前回までの台風では土砂崩れにガクブルだった我が家ですが、今回は風台風だったので被害はない
…いや、予約していた本の取り置き期限が今日までだったのを思い出して慌てて図書館に行ったら臨時休館ですって_| ̄|○しかも行きは動いていたバスが帰りは運転見合わせ…風に煽られ危険を感じつつ、バスなら10分の道のりを30分以上掛けてとぼとぼと帰宅したのでした…トホホホ
気を取り直して
大昔、表題の方に興味があって、この人を卒論のネタにしようかと思った位色々調べたことがあるのだが(結局事情があって別のネタをテーマにすることになったんだが…)
この人の謎は途中で名前を変えてしまったこと。
平安中期以降になると幼名と成人名を変える例が登場し始め、中世になると名前を変える方が普通になるのですが(例えば拙ブログのネタの島津家の場合、島津義久が幼名虎寿丸、元服して又三郎忠良、更に義久と変えた)、奈良時代以前で改名する人は非常に希なのですよ。
奈良時代の研究もかなり掘り尽くされた1990年代末から、ネタ切れ感からかどうか分からないが(ヲイ)この謎に注目する人が出始める。
私が調べた限りでは一番最初にネタにしたのは関西学院大の教授だった亀田隆之氏(「律令貴族の改名に関する覚書」『関西学院大学 人文論究』44-2)なのだが、奈良時代中期に改名した人をさっくり網羅するという内容で、深く突っ込まれることはなかった。
その次につっこみを入れた人が前田晴人氏(「藤原真楯の改名問題」(1)(2)『東アジアの古代文化』89、91)。これはかなり詳細な内容で、藤原八束→真楯の改名問題を官位の変遷などを細かく考察して
「聖武天皇の寵臣だった八束は橘奈良麻呂の乱をきっかけとして不仲だった藤原仲麻呂の“身内的な与党”に組み込まれ、その結果が改名だったのではないか」
と考えられた。
今のところこれに関する最新の論証は木本好信氏(「藤原真楯薨伝について--『続日本紀』薨伝条文の一研究」『古代文化』 57(3)、「『続日本紀』藤原真楯薨伝・再論--『公卿補任』尻付と「功臣家伝」『政治経済史学』 (491))だが、前掲の前田氏の論を踏まえつつも
「真楯(八束)が仲麻呂と仲が悪かったなんて言うのは全部嘘!真楯が仲麻呂の与党だったのを隠蔽するための隠蔽工作だ!」
と言う結論を展開された。
しかし『続日本紀』を見る限りでは、やっぱり八束は仲麻呂に目の仇にされていたと思われるのです。
以下ご興味のある方は「つづきはこちら」をクリックプリーズ。
関空は水浸し+唯一の連絡橋にタンカーが衝突して当分使えなさそう+ついでに公式HP繋がらないヽ(`Д´)ノ
阪神甲子園駅やJR京都駅の屋根は飛ぶ(○。○)※死人がいないというのが奇跡
南海の方ではショートで丸焼けになった駅もあるようなんですが…
皆様如何でしょうか。
前回までの台風では土砂崩れにガクブルだった我が家ですが、今回は風台風だったので被害はない
…いや、予約していた本の取り置き期限が今日までだったのを思い出して慌てて図書館に行ったら臨時休館ですって_| ̄|○しかも行きは動いていたバスが帰りは運転見合わせ…風に煽られ危険を感じつつ、バスなら10分の道のりを30分以上掛けてとぼとぼと帰宅したのでした…トホホホ
気を取り直して
大昔、表題の方に興味があって、この人を卒論のネタにしようかと思った位色々調べたことがあるのだが(結局事情があって別のネタをテーマにすることになったんだが…)
この人の謎は途中で名前を変えてしまったこと。
平安中期以降になると幼名と成人名を変える例が登場し始め、中世になると名前を変える方が普通になるのですが(例えば拙ブログのネタの島津家の場合、島津義久が幼名虎寿丸、元服して又三郎忠良、更に義久と変えた)、奈良時代以前で改名する人は非常に希なのですよ。
奈良時代の研究もかなり掘り尽くされた1990年代末から、ネタ切れ感からかどうか分からないが(ヲイ)この謎に注目する人が出始める。
私が調べた限りでは一番最初にネタにしたのは関西学院大の教授だった亀田隆之氏(「律令貴族の改名に関する覚書」『関西学院大学 人文論究』44-2)なのだが、奈良時代中期に改名した人をさっくり網羅するという内容で、深く突っ込まれることはなかった。
その次につっこみを入れた人が前田晴人氏(「藤原真楯の改名問題」(1)(2)『東アジアの古代文化』89、91)。これはかなり詳細な内容で、藤原八束→真楯の改名問題を官位の変遷などを細かく考察して
「聖武天皇の寵臣だった八束は橘奈良麻呂の乱をきっかけとして不仲だった藤原仲麻呂の“身内的な与党”に組み込まれ、その結果が改名だったのではないか」
と考えられた。
今のところこれに関する最新の論証は木本好信氏(「藤原真楯薨伝について--『続日本紀』薨伝条文の一研究」『古代文化』 57(3)、「『続日本紀』藤原真楯薨伝・再論--『公卿補任』尻付と「功臣家伝」『政治経済史学』 (491))だが、前掲の前田氏の論を踏まえつつも
「真楯(八束)が仲麻呂と仲が悪かったなんて言うのは全部嘘!真楯が仲麻呂の与党だったのを隠蔽するための隠蔽工作だ!」
と言う結論を展開された。
しかし『続日本紀』を見る限りでは、やっぱり八束は仲麻呂に目の仇にされていたと思われるのです。
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それは八束と八束の異母弟・藤原清河の天平末年から天平勝宝前半までを比較すると分かりやすいかと。
八束 天平16年(744年)11月17日 正五位上→従四位下
天平19年(747年) 3月10日 治部卿
(天平20年(748年) 3月22日 参議(『公卿補任』))
天平勝宝4年(752年)4月15日 従四位下(摂津大夫)
天平勝宝6年(754年) 正月16日 従四位下→従四位上
清河 天平18年(746年) 4月22日 正五位上→従四位下
天平勝宝元年(749年) 7月2日 従四位下(参議)
天平勝宝2年(750年)9月22日 遣唐大使任命
天平勝宝4年(752年) 閏3月9日 従四位下→正四位下
藤原清河は上記の通り遣唐大使になったものの帰国途中で遭難、そのまま帰国できず在唐10数年にして客死してしまったという悲劇の人物として有名です。この人は異母兄の八束と共に聖武天皇の東国行幸に着いてきたことで出世の糸口をつかむ物の、「原則として弟は兄より先を越さない」この当時の叙位の法則により、八束より下の官位でした。
天平18年までは。
ところが上記で分かるように清河は天平18年の春の定例の叙位で八束にならび、天平勝宝元年には参議にも任じられます。八束は兄・永手に抜かされる(天平感宝元年4月1日 従五位下→従四位下(3階級特進))のは止む無し(なにしろ腐ってもヾ(^^;)永手は北家の嫡子だし)と考えていたでしょうが、弟(それも異母の)と並ばれたのには正直ショックを受けたのではないでしょうか。天平20年に八束は父・房前が就任して以来11年ぶりの藤原北家からの参議になります(らしい、が『続日本紀』には書いてない)が、これも翌年には清河に並ばれてしまいます。
この辺の措置には藤原仲麻呂の意図があったのではないかと考えます。というのも仲麻呂は天平18年3月5日に式部卿に就任、天平勝宝元年に紀麻路に譲るまで在籍していました。この式部卿というのが、いわゆる人事権を握っていたところでして、事実仲麻呂の式部卿在籍中は人事異動が激しかったことが指摘されています(参考「天平18年の任官記事をめぐって」直木孝次郎(『夜の船出』所収))。天平勝宝元年に仲麻呂の後任になった紀麻路も、後に道祖王廃太子事件に関わるなど仲麻呂よりの人物だったと推定されます。
なお、八束は時期ははっきりしない物の天平13年頃以降(木本氏の前掲論文では天平15年5月以降と推定されてますが)式部大輔(式部省次官)になっていますが、この頃の式部卿は知太政官事の鈴鹿王(長屋王の弟)でして、実質的には八束が長官みたいな物だったと考えられます。が、『続日本紀』天平18年3月10日によれば平群広成という人が新しく式部大輔に就任しています。この日ですが、藤原仲麻呂が式部卿に就任してわずか5日後。仲麻呂が実質前任者の八束を追い出したとしか思われませんが如何でしょう。
ただ、八束は天平19年には治部卿、先述の通り天平20年には参議になったので、兄・永手と違ってカラカラの激干しにされたわけではないようですが(^^;)、異母弟には並ばれるわ、在籍していた(牛耳ってた?)役所を追い出されるわで、仲麻呂にはよい感情は持てなかったのではないかと考えます。
天平勝宝4年には摂津大夫になります。これは閑職ではないのですが、それまで八束は京官(※いわゆる中央官庁勤務)しかしたことがなかったので、左遷感は強かったと思います。発令が華やかな大仏開眼の6日後というのも気になります。ちなみにこの大仏開眼の日に光明皇后・孝謙天皇が仲麻呂邸(田村第)に行幸し、しばらく仲麻呂邸を仮宮としていたのは有名です。
天平勝宝6年に10年ぶりに昇叔しますが、これはこの頃式部卿が同母兄の藤原永手に変わっていたので、兄の温情が働いたのでしょう。
…しかし、橘奈良麻呂の変の後の『続日本紀』に書かれた八束(真楯)は、そのまま見る限りじゃ仲麻呂政権下の重要官僚なんですよねえ。確かに。
天平宝字元年(757年) 8月4日:正四位下 ※橘奈良麻呂の変褒賞関連
天平宝字2年(758年) 8月25日:見参議中務卿 ※この時に仲麻呂他と共同して役職の唐風改名に参画
天平宝字3年(759年) 6月16日:正四位上
天平宝字4年(760年) 正月4日:従三位、兼大宰帥
天平宝字6年(762年) 12月1日:中納言兼信部卿(中務卿)
天平宝字8年(764年) 9月12日:正三位。日付不詳:兼授刀大将
(※主に『続日本紀』参照)
木本氏の言うようにこの改名が仲麻呂の発案とするならば、仲麻呂敗死後、真楯が何でこの名前のままでいたのか(そして改名マニアヾ(^^;)の称徳天皇が何で再改名させなかったのか)という大きな謎が出てくるのですが…これは今回の主題からちょっと外れるので保留にしておいて。
前記のように、仲麻呂に色々煮え湯を飲まされていた八束(真楯)が何でこういう状況を甘受したかと言うことですね。
橘奈良麻呂の変が起こる前年の天平勝宝8年に聖武天皇が崩御します。聖武天皇は八束を大抜擢してくれた恩人でして、その死のショックは大きかった物と推察されます。
ところが同年には八束には慶事もありました。三男が誕生したのです。後に右大臣にまで上り詰める藤原内麻呂ですが、恩人と入れ替わるように生まれたこの三男には思い入れが深かったのではないでしょうか。「この子だけは守り通さないと」と言う思いから、保身に走ってもおかしくはないでしょう。
その後の八束(真楯)の人生は、外見は華やかでも内実は苦渋に満ちた物だったと思われます。前掲の前田氏は「『万葉集』が天平宝字3年で採録が終わったのは、友人の藤原八束(真楯)の転身に大伴家持がショックを受けたから」とまで推測しています。事実、八束(真楯)の歌は天平宝字以降は『万葉集』に採録されていません。
過去の友人関係も失い、それでも八束(真楯)が守ろうとしたのは、恩人の生まれ変わりかも知れないと思い込んだ我が子、だったのかも知れません。
…と、最後の展開が何かラノベ感満載になってしまったが、まあいいかだってこんな場末のブログだからこれくらい好きなこと書かせてよ(ヲイ)
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