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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
8月10日はヤドンの日!ヾ(^^;)

気を取り直して
前回までの話はこちら  です。



実は藤原永手が12年間干されてた理由の検証にこんな事もしようとしていた。
「永手は干されてたので結婚もできなかった?!」

と言う事で調べ始めたんですが…
昔の人って生年が分からないことが多い、と言うか分からない方が普通なので難航。

また今回もややこしい話になりそう。ご興味のある方は「つづきはこちら」をクリックプリーズ。




今回のネタの永手の家族構成は以下の通り(主に『尊卑分脈』参照)
嫡妻:大野仲智  ?-天応元年(781年)3月10日
 ※子供無し
妻:藤原鳥養の娘 ※鳥養(鳥飼)は永手の異母兄
 長男:藤原家依 天平15年(743年)-延暦4年(785年)6月20日
妻:藤原良継の娘 ※良継は永手の従兄弟
 次男:藤原雄依 生没年未詳
 女:藤原曹司(曹子) 天平宝字2年(758年) - 延暦12年(793年)11月
生母未詳
 女:藤原巨勢麻呂の妻 ※巨勢麻呂は永手の従兄弟
 女:藤原内麻呂の妻 ?-延暦19年(800年) ※内麻呂は永手の甥 
分かっている中で一番年長なのは長男の家依。天平15年は永手絶賛干され中(←ばんない命名ヾ(^^;))まっただ中ですね…。

それと前後するのが藤原巨勢麻呂の妻だった娘かと。巨勢麻呂も年齢が分からない人なんで検証が難しいのですが、この娘が巨勢麻呂との間に産んだ息子・藤原貞嗣の生没年ははっきり分かっています。天平宝字3年(759年)-弘仁15年(824年)1月4日なので、当時の法律で結婚が許される年齢から逆算すると、巨勢麻呂の妻は遅くても天平16年(744年)生まれと考えられます。

次男の雄依は、その後藤原種継暗殺事件に巻き込まれて失脚し、大臣の息子なのに消息不明という不幸な末路をたどった人です。今ざっと見たら、この人は色々検証の余地があります。
まず、最初に史料に登場するのが『続日本紀』天平神護3年(767年)正月18日に従五位下に昇進したことなのですが、この時代、永手の息子クラスが従五位下に昇進するのは大体20代前半(参考:永手が従五位下になったのは23歳、藤原八束(※永手の弟)は25歳)なので、それから推定すると天平14年(742年)~天平16年(744年)ぐらい生まれとなります。
ところが、これでは現在伝わっている母親との年齢で齟齬を来してしまいます。雄依の母は藤原良継の娘とされています(『尊卑分脈』)が、この良継、実は永手と殆ど年齢が変わらない(^^;)(良継:716年生まれ 永手714年生まれ)。良継の娘は早く見積もっても735年ぐらいの生まれですが、これでは10歳以下で良継の娘は雄依を生んだことになってしまいます。どう考えても無理がありすぎ。これは『尊卑分脈』のほうが間違った情報をのせてしまったと考えた方がよいかと。
ついでながら、「家」「雄」という名前の共通性から見ると、この2人は同母兄弟で、雄依の母も藤原鳥飼の娘と考えた方が良さそうに思われます。また、雄依の母が良継の娘じゃないとすると、先述した藤原種継暗殺事件で理由不明のまま失脚してしまった事情が分かりやすいです(母が良継娘とすると、雄依は藤原式家の縁者となり、種継(この人も式家出身)事件に巻き込まれる理由が分かりにくい)。贈太政大臣・永手のこの当時唯一の男子というサラブレッドだった雄依は、事件のついでにライバルによって排斥された可能性が高いと考えられます。
更についでに書いてしまうと(^^;)、家依と雄依は神護景雲3年(769年)2月に称徳天皇が父・永手邸を行幸したときに同席していて昇級に預かったのですが、この席には父の嫡妻・大野仲智も同席しています。ここから、鳥飼の娘は早くに亡くなってしまい、後妻の仲智が二人の継母になったとも考えたのですが、流石に憶測しすぎでしょうか。

光仁天皇夫人となった藤原曹司については、まあ史料をそのまま受け取ってokだと思います。うっかり左大臣藤原永手の娘に生まれたばっかりに、49歳も年上の天皇の后になる羽目になってしまった、考えようによったらとんだ災難にあってしまった人(^^;)ですが、陰謀渦巻く奈良時代後期~平安初期の朝廷で被害に遭うことなく生涯を終えています。
母親が当時実権を握っていた藤原式家出身者だったことで兄弟(雄依)の連坐に合うこともなく、また、光仁天皇との間に子供がいなかったことで、桓武天皇(高野新笠という渡来系の身分の低い女性が母だったのは有名かと)に敵視されることもなかったと考えられます。
蛇足ですが、良継の娘が曹司を生んだ天平宝字2年には既に父・永手の嫡妻として大野仲智がいたと考えられますので、良継の娘はいわゆる側室だったのではないかと考えます。

藤原内麻呂の妻となった娘は一番末っ子でしょう。内麻呂との間に(内麻呂の十男)を生んだ2年後の延暦19年(800年)に亡くなっています。夫の内麻呂は天平勝宝8年(756年)生まれ、この女性が内麻呂や姉の曹司と同年代と考えると、衛を40代で出産したことになってしまいます。この時代に40代で出産をするのはかなり考えづらいので、永手の最晩年の神護景雲(767~770年)~宝亀3年(772年)の間に生まれたのではないかと。
母親については史料がないので何とも言えないです。流石に鳥飼の娘だけは年齢の問題であり得ないと思いますが(^^;)



と、色々ぐちゃぐちゃ考えてきたまとめなんですが

結論「嫁に姪っ子とか従兄弟の娘とか、永手さんってまさかロリk」うわ何を

全然結論になってないわな。(^^;)

まあ、干されている時代でも子供がいると言うことは結婚はしていたようなんですが、その相手が姪っ子(兄・鳥飼の娘)という半径1mヾ(--;)で探してきた相手というのが、うーむ。
あと、傾向を見てみると
(1)干され時代ヾ(--;)の子供:家依、藤原巨勢麻呂の妻、雄依
(2)日の当たるところに出た時代の子供:曹司、藤原内麻呂の妻
と年代がはっきり分かれている特徴が出ています。
これが何を意味するのか。うーむ。

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