拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
「斎藤元彦知事は兵庫県の恥」なのか?安直に「街の声」を取り上げるテレビと情報操作の危険性
10/21(月) 11:11配信
https://news.yahoo.co.jp/articles/e0778ac2c9844b6510907b28943aaf3e93d8a013
後半しか関係する話がなかったけれど、あえて取り上げたのは、今日発売の『週刊現代』にこんな記事が載ったから
齋藤元彦兵庫県知事はなぜあきらめないのか
https://x.com/WeeklyGendai/status/1848185967427158380?ref_src=twsrc%5Egoogle%7Ctwcamp%5Eserp%7Ctwgr%5Etweet
10/21(月) 11:11配信
https://news.yahoo.co.jp/articles/e0778ac2c9844b6510907b28943aaf3e93d8a013
ニュース番組やワイドショーの長時間化を背景に、テレビで街頭インタビューのシーンを見る機会が増えた。一般市民の「街の声」を紹介することで視聴者の共感を生む効果を期待するのだろう。しかし、「街の声」は紋切り型に陥りやすいばかりか、制作サイドの恣意性や偏向性の危うさを持つ。つまり情報操作の危険性を孕んでいるのである。安易に使われる「街の声」に、もっと慎重になるべきだ。
(岡部 隆明:元テレビ朝日人事部長)
■ ディレクターが恣意的に編集する「街の声」
ここで、街の声だな!
ニュースデスクは確信したように言いました。大きな事件・事故が発生すると、関連した要素をあれこれと盛り込んで多面的に伝えるのがニュース番組の常です。巧みに構成できるかどうかが、ニュースデスクの腕の見せどころになります。
30数年前、テレビ朝日入社1年目の私は、夕方のニュース番組のADを務めていました。スキルも経験も未熟でしたが、何かあれば約束事のように「街頭インタビュー(街の声)」が組み込まれることに違和感を抱いていました。
たまたま取材クルーと出会った人の、自由気ままな雰囲気を装いつつ、それでいてカメラを意識した、もっともらしい感想や意見――。
こうして放送される「街の声」は、ニュースの流れに沿って、無難な形で収まっています。それもそのはず、ディレクターが、うまく収まるように恣意的に編集するからです。
多角的な視点を提示しているようで、実際は、想定の範囲内のありきたりな意見に過ぎない場合がほとんどです。道行く人たちに声をかけて、瞬間的に答えてもらうので、そうなるのは仕方ありません。
また、市井に暮らす人たちの多種多様な意見を拾っている体裁ですが、時間も場所も回答数も限定的で、中途半端だと言わざるを得ません。
皮相的で、おざなりな「街の声」に対して、私は学生時代から条件反射的に警戒心を抱いてしまう習性がありました。
ところが、人生は皮肉なものです。
■ ワイドショーやニュース番組の「便利な道具」
入社4年目くらいだったでしょうか。報道の新番組の応援に駆り出され、そこで命じられたのは、街頭インタビューでした。
「最近話題になっているテーマについて、一般市民の声をまとめたVTRをつくる」のが私のミッションでした。
「街頭インタビューは嫌いです」と言いたいところでしたが、会社員として、そうは言えず、1カ月間、毎日、街に繰り出しました。
修行のようでしたが、毎日、何時間もインタビューしていると、その技術は上達するものです。放送後にプロデューサーから褒められることが多くなりました。
しかし、達成感はありませんでした。出来栄えがよいVTRだったとしても、回答者を操縦しているようで、予定調和の産物に過ぎないという懐疑的な気分が勝っていたからです。
このところ、テレビを見ていると何かにつけて、「街の声」が使われていることに気づきます。
ニュースデスクが熟慮して「ここで、街の声だな!」と判断していた時代よりも、もっと便利な道具として多用されているのではないでしょうか。「街の声を入れておけばいいんだよ!」という安易ささえ感じます。
それが顕著なのは午後のワイドショーや夕方のニュース番組です。天気予報とは別に、「今日は暑かった、寒かった」と、1日の天気を振り返るコーナーが、なぜか増えています。そうしたコーナーの多くで「街の声」が使われます。
「半袖か長袖か迷いました」
「(気温が下がったので)今日から、『冷たいうどん』じゃなく『温かいうどん』です」
こんな「街の声」が延々と続くのです。私は、今日の天気を振り返る意味がわからないうえに、その日の気温にまつわる「個人の事情」を公共の電波で流す価値を見出せません。
■ 小説家の松浦寿輝氏が突いたメディアの核心
メディアはつくづく「美談」が好きだなと思うだけだ。
これは、小説家の松浦寿輝氏が、日本経済新聞のコラム「あすへの話題(2023年1月11日付)」で、理想の家族像だけを切り取って伝えるテレビを皮肉った言葉です。
コラムでは、年末年始やお盆の時期にテレビニュースで流れるインタビューは、必ず都会で暮らす若夫婦と帰省先の老夫婦が登場し、孫を仲立ちにして互いの絆を確かめ合う微笑ましい映像が流れることを指摘しています。
そのうえで「こうした理想の家族が国民の大多数を占めているとはわたしにはとうてい思えない。(中略)ニュースに映るのは決まって『孫の顔を見せに……』という千篇(せんぺん)一律の紋切り型なのである」と述べています。
美談に仕立て、定型パターンに陥るテレビの体質を批判している松浦氏の言葉は、核心を突いていると思います。
■ 大谷翔平礼賛に欠かせない「街の声」
テレビは英雄の美談も大好きです。
カラスの鳴かぬ日はあれど、テレビで大谷翔平選手の話題を取り上げない日はありません。連日、活躍ぶりが伝えられますが、それを礼賛する「街の声」も必須になっています。
そんな中で、インターネット上の記事が目に留まりました。
■ 那須川天心選手が投げかけた疑問
プロボクサーの那須川天心選手が、大谷選手の活躍を伝える報道について問われ、「テレビをつければ大谷翔平じゃないですか。みんなどうなんですか。飽きちゃわないですかね。でも、それだけすごいことしているってことなのかなあ、と思いますね」と発言して、賛否両論の論議を巻き起こしたというものです。
大谷選手一辺倒になっている「報道の姿勢」に疑問を投げかけただけで、炎上するのが今の日本の空気なのだろうかと興味を持ちました。那須川選手の発言はテレビの生放送でのものだったそうですが、VTR収録だったら、果たしてその部分は使われたのでしょうか…。
仮に一般市民の「街の声」で同じような発言があったとしたら使われることはないでしょう。英雄について、マイナス発言は邪魔扱いされて間違いなくカットされます。
大谷選手の話題に限らず、明るく楽しい場面では、幸福感を表す言葉でなければいけないのが「一般市民の声」の「掟」のようです。
■ 芋掘りイベントで「楽しくなかった子ども」はいないことに
たとえば芋掘りなど、子どもたちが参加した屋外イベントのニュースで使われるのは、十中八九、「たのしかったぁー」という言葉です。ここでは、楽しくなかった子どもはいないことになっています。
これも一種の美談で、紋切り型の典型です。こういう季節の風物詩を伝える際は、十年一日の思考停止状態だとしても、明朗快活な表現しかありえないと割り切るのが不文律です。
しかし、簡単に割り切ってはいけない「街の声」の乱用があります。
■ 斎藤元彦・兵庫県知事の疑惑は格好のテレビネタ
半年くらい前から、ニュース番組やワイドショーは、兵庫県の斎藤元彦知事(当時)のパワハラ疑惑について、連日のように取り上げていました。テレビは、単純な二項対立を取り上げるのを好む傾向があり、その点において、格好のネタだったように思います。
この問題は、パワハラ疑惑を内部告発した前・西播磨県民局長A氏と知事の対立構図が鮮明でした。告発文書を報道機関に送付したA氏は、その後、県の公益通報窓口にも通報しました。
一方、斎藤氏は告発文書を「うそ八百」と非難し、公益通報の調査結果が出る前にA氏を停職3カ月の懲戒処分にしました。A氏が死亡すると、今度は県議会と斎藤氏とが対立し、県政の停滞と混乱を招きました。そして、斎藤氏の不信任決議が可決され失職するに至りました。
兵庫県の恥だ。
この問題を取り上げる時に、こうした兵庫県民の声も頻繁に使われていました。「人として許せない」「辞めないのは、どうかしている」など、人格否定の発言も多々ありました。毎日、繰り返し、繰り返し、斎藤氏を糾弾する「街の声」ばかりを伝えてきたのです。
私は兵庫県民ではなく、もともと「街の声」に対して冷ややかなスタンスなので、一歩引いて聞いていました。それでも、何度も反復されると、それが統一見解のように固まっていく感覚がありました。
権力者の問題や疑惑について真相解明や責任追及を果敢に実行するのはメディアの重要な使命です。したがって、斎藤氏の疑惑に対して厳しく切り込んでいくのは当然のことです。
■ 安直な斎藤批判とSNSでの「#斎藤知事がんばれ」
ただ、日々、そのニュースを伝えていく過程において、次第に感情的になっているのではないかと疑問が湧きました。そして、怒りに満ちた「街の声」を畳みかける様相は、結果的に、視聴者に一方的な印象を与える「印象操作」になってしまうとの危惧を抱きました。
そんなことを考えていたら、X(旧Twitter)では「#斎藤知事がんばれ」というハッシュタグがトレンド入りし、SNSなどでは斎藤氏を擁護する声が広がっていると話題になりました。高まる批判の流れに乗って番組を制作する中で、「街の声」と称して知事を糾弾するコメントを安直に使ってきたテレビに叛旗を翻したかのようです。
「街の声」は視聴者の感情に訴え、共感を生みやすい手段です。しかし、もともと恣意性や偏向性など、危うさを兼ね備えています。情報の送り手であるテレビも、受け手である視聴者も、「街の声」に対して慎重な構えが必要ではないでしょうか。たかが「街の声」だと軽く扱うと落とし穴にはまってしまうように思います。
後半しか関係する話がなかったけれど、あえて取り上げたのは、今日発売の『週刊現代』にこんな記事が載ったから
齋藤元彦兵庫県知事はなぜあきらめないのか
https://x.com/WeeklyGendai/status/1848185967427158380?ref_src=twsrc%5Egoogle%7Ctwcamp%5Eserp%7Ctwgr%5Etweet
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