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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
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4月某日と5月某日、20年に1回のご遷宮(実際は補修)に伴い公開された本殿の内陣を見学して参りました。
行ったのは
・春日大社(奈良市)
・上賀茂神社(京都市)
・下鴨神社(京都市)
の3カ所です。
通常は階段の下辺りから本殿の門だけ見ている状態なので貴重な機会かと思いまして。
あ、次の20年は私の寿命的にどうかというのもありました(涙)

実はまだ写真の方が整理できてないので簡単に感想のみ
・春日大社 この3つの中で一番印象に残りました。形式がこの3つの中で一番古いのでは。
・上賀茂神社 入場前に現職の神職によるお祓いがあるなど盛り上がりは最高だったんだが…ヾ(--;)
・下鴨神社 本殿より台所の方が見所がありました(^^;)

本当は写真が整理できてからこの記事をUPする予定でしたが、3社とももうそろそろ神様が本殿にお帰りになられて拝観も終了するようなんで、告知も予て緊急に。
春日大社は今月末まで
上賀茂/下鴨神社は「京の夏の旅」で特別公開されます。秋の特別拝観は時期的に微妙なんで夏がラストチャンスかと。

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2年ぶりに、HPの方を更新しました。
更新内容はこちら関係です。

長年気になっていたんですが、ブログの方の更新もままならない状況でずるずる後回しに…
もう少ししたらHP各ページの頭に出ているうざーいヾ(^^;)広告も消えると思います。
本館HPも宜しくお願い申し上げます<(_ _)>


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ズルズル9回目…(-_-;)
…などと書いている暇があったらともかく先に進む



ということで、今回も関ヶ原の合戦頃に島津家から黒田家に送られた文書をピックアップ
ただ今回のは前回ほど面白くないかも(ヲイ)

 以上
其れ以来申し承らず、無言に
罷かり成り候処、御使札に預かり
畏れ入り存じ候。先日伏
見において申し入れ候御報、慥かに
相届き、披見申候。将又
兵入(注1)に到り仰せ越さるる儀共、委曲
承知せしめ候。猶惟新
の所より、申し達すべく候間、詳らかならず候。
恐惶謹言。
         羽少将
 霜月廿一日 忠恒(花押)

 黒田甲斐守殿
       御報
<165 島津忠恒書状(10巻14号)>
(注1)兵入→「兵庫入道」の略、つまり島津義弘(島津兵庫頭義弘)のこと。でもこの後の文では「惟新」という号で書いたりしてるし、統一取れてないですな(^^;)

慶長6年頃11月21日と推定されている文書です。
前回紹介した同じ頃に島津義弘が黒田長政に書いた文書と比較すると、文自体も短いですが、内容が通り一辺倒というか中身がない文章のように感じました。
なんとなくですが、黒田家とのやりとりについて忠恒は父/義弘に一任していて、忠恒はタッチしていない(したくない?)という印象を受けました。皆様如何でしょうか。

あと前回の義弘の文書もそうですが、名乗りが「羽柴兵庫頭」「羽柴少将」となっているのが興味深いです。確か慶長7年頃までは”羽柴”名乗りしてたんだが、その後はきっぱり止めてしまうのだったかな?うろ覚え。



では気を取り直して次の文書の紹介

 以上
甲州様(注1)より御礼に預かり畏み
存じ候。仰せの如く、兵庫頭(注2)
進退の事、去んぬる年
上方御弓箭の企(注3)、
曽て以て存ぜず候と雖も、 
太閤様以来 
秀頼様に到り数通の誓紙を
上げ置き、剰え御高恩を蒙り候事、
今に忘却無きにおいては、人数ならびに出陳致すべき
の由、奉行衆(注4)より
仰せ聞かさるるに就き、力に及ばず在陳せしめ候。
聊か以て惟新私の分別に
あらず候事、最前石田殿(注5)
より右の入り組み共に付き、使として
八十嶋方(注6)さわ山(注7)より伏見へ
差し越され候刻も、存分の
返事申しきられ候いき。今に其の
隠れある間敷く候。既に八十嶋方事、
当分藤堂佐渡守殿(注8)へ
かんにん候故、証語分明たる由、
段々本多佐渡守殿(注9)に到り
申し分くるに依り、佐州御合点
を以て 御前御別儀ある
間敷き由、御誓紙を以て
仰せ下され候。 内府様(注10)より直に 
御意を成さるる儀はこれ無く候
え共、先ず以て満足仕り候。誠に
最前以来惟新事に付き、
別して御機遣いを成され、度々において
御使差し越され、御懇志の
段々、我々式にいたるまで
忘却無く、忝く存じ候。弥当家
の事、御入魂を以て 
内府様御前別儀無き
様に御取り合わせ成さるべき事、
頼み奉り候。仍って御縁辺の
儀(注11)、鳥居勘左衛門尉殿(注12)口上
ども惟新承られ、御返事
申し入れられ候之間、私の御報
申し上ぐるに能わず候。此等の旨、
漏れ申さしめ給うべく候。恐々謹言。

 閏十一月三日         伊勢平左衛門尉
                            貞林(花押)
 鳥居勘左衛門尉殿(注11)
<166 伊勢貞林書状(10巻15号)>
(注1)甲州様→黒田長政
(注2)兵庫頭→島津義弘 今気が付いたが、この文書でも前半では島津義弘を「兵庫」といっているのに後半では「惟新」である 謎。
(注3)上方御弓箭の企→ご存じ関ヶ原の合戦
(注4)奉行衆→いわゆる五奉行…なんだが、関ヶ原の合戦時は浅野長政は隠退、石田三成は隠居させられていたので、残りの三奉行(増田長盛、長束政家、前田玄以)のことである
(注5)石田殿→ご存じ石田三成
(注6)八十嶋方→『黒田家文書 1』解説(p.354)では「石田三成の家臣。」としか書いていないが、名字から見て、関ヶ原の合戦時に島津豊久に追い返された八十島助左衛門と同一人物と見て間違いないのではないだろうか。ご意見お待ちしています。
(注7)さわ山→佐和山城。石田三成の本拠地。
(注8)藤堂佐渡守殿→藤堂高虎。八十島助左衛門(?)が関ヶ原の合戦後藤堂高虎の元に捕まっていたという話は初耳で興味深い。
(注9)本多佐渡守殿→本多正信。
(注10)内府様→徳川家康。ちなみに『黒田家文書』ではすべて「だいふさま」とルビが振ってある。
(注11)御縁辺の事→黒田長政養子・松寿丸と義弘の孫娘との縁談のこと。前回記事参照。
(注12)鳥居勘左衛門尉殿→黒田長政の家臣。前回の島津義弘の書状参照。

慶長6年閏11月3日付の書状で、書いた人は前回の島津義弘の書状にも登場した義弘の家老・伊勢貞林(伊勢貞昌の父)です。宛先は黒田長政の家臣・鳥居勘左衛門になっていますが、自分の身分から考えて黒田長政宛にするのは恐れ多いからでしょう。鳥居は長政の使者でもありますから、鳥居からこの文書の内容を長政に伝えてくれる事を期待して書いたと思われます。
内容ですが、島津義弘の処分に関して黒田長政の尽力を感謝する一方で、関ヶ原の合戦は石田三成やその家臣の八十島(助左衛門?)のせいでいやいや西軍に参加したんだ!…と、かなり言い訳臭いです(爆)



今回はここまで。
次回はこの件に関する、ある人物の実に興味深い文書を紹介する予定です。

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遂にこのネタずるずる8回目…(;¬_¬)

気を取り直して、早速本題に入ります。
予告通り、関ヶ原合戦後に島津家から来た文書を紹介。
最初の文ですがかなり長文です…でもがんばる

 是より申し入るべく候処、遮って御使札
 遠路に及び、御丁寧の至り、畏み存じ候。
 承り候様、今度龍伯(注1)・少将(注1)前より使
 者(注3)指し上げ候処、井伊兵部少輔殿(注4)・
 本多佐渡守殿(注5)お取り成しを以て、
 内府様(注6)御前異議無く相済み、殊に
 拙者進退の儀迄異議ある
 間敷きの由、本佐州(注5)誓紙を以て、
 仰せ下され候間、先ず以て安堵致し候。定めて
 各内々御取り合わせ候故たるべきと
 存ずるばかりに候。
一、先年以来申し談ずる縁中の儀、
 捨て思し食されず、今度落着の
 事、聞こし食さるべきの由、御状并びに鳥
 勘左衛門(注7)方口上の通り、具に承り届け候。
一、彼の縁中の儀に付き、拙者前より
 今度使者を指し上げ候わば、京都
 の儀をも仰せ調えられるべきの由、御念比に
 承り候、尤も其の儀に応ずべく候え共、御存じの如く、
 拙者身躰の事、本佐州より 内府様御前の儀、異議ある間敷
 の由承り候と雖も、 内府様御前より
 御別儀無きの旨、直に仰せ聞かされず
 候の条、当分逼塞せしめ、手前
 気遣いの段、御察し成さるべく候。然る
 間、先年以来承り候縁中の儀とは
 ありながら、此の節、拙者使書
 指し上ぐべき事は、貴所御為にも、
 勿論、拙者ためにも 内府様御
 前の儀、計り難き始末に候間、拙者
 使書など指し上ぐべき儀は、当分
 斟酌深重候。此れ等の旨聞こし
 食し分けられ候わば、本望たるべく候。
一、彼の縁中の儀、拙者手前ならざるにおいては、
 別方へ仰せ合わさるべきかの由、伊勢
 平左衛門尉(注8)への御書面、尤もに存じ候。
 拙者孫の儀、方々より所望候と雖も、
 先年以来申し談ずる辻を以て、今に
 何方へも契約無く、手前に抱え置き
 候え共、御息様(注9)御年ばえも承り
 及び候。定めて御縁の儀いそがわしく
 思し食さるべく候間、さように候わば、
 その旨に任せらるべき事、御肝要に候。重言乍ら、
 拙者進退の儀、当分は
 京儀計り難き時分に候条、是より
 落着の儀申し入れ難く候。申すに及ばず候と雖も、
 彼の縁の事、たとい別方へ仰せ
 組まれ候共、先年以来別して
 御入魂致すべきの由、申し談ずる守備にて候条、
 毛頭御隔心の儀御座あるまじく候。
 此の段は定めて御同情たるべしと存じ候
 間、鳥居勘左(注7)方へ申し入れ候。恐惶謹言。

 後十一月四日               羽兵庫入道
                              惟新(花押)
 黒甲州
    御報
<164 島津惟新(義弘)書状(10巻13号)>
(注1)龍伯→ご存じ島津義久
(注2)少将→あの島津忠恒
(注3)使者→鎌田政近
(注4)井伊兵部少輔殿→井伊直政 この翌年に死去
(注5)本多佐渡守、本佐州→本多正信 この頃から徳川家と島津家の取り次ぎ担当となる
(注6)内府様→来年400回忌を迎える名物の狸ヾ(--;)こと徳川家康
(注7)鳥勘左衛門、鳥居勘左→黒田長政の家臣。知行は400石とのこと(『黒田家文書 1』p.350解説)。
(注8)伊勢平左衛門尉→伊勢貞成(貞林)。後に島津忠恒(家久)の家老となる伊勢貞昌の父。この当時は島津義弘付きの家老の一人である。
(注9)御息様→黒田松寿丸(1591~1603)。黒田長政の幼名と同じ名前を持っているが、実は養子。この当時先妻・蜂須賀長政女(糸)との間にも後妻・保科正直女(徳川家康養女・栄)との間にも男子がいなかったため、黒田如水の配慮により従兄弟を養子に迎えた。実父は一柳直末(天正18年(1590年)戦死)、実母は黒田如水の妹。

慶長6年11月4日付の、大変に興味深い内容の書状です。
これが桐野作人さんが「さつま人国記」2014年4月21日分で取り上げた物だと思います。
長文を要約すると
「井伊直政と本多正信の取りなしで自分も助かりそうなんだけど、まだ正式に決まったわけでない様子なんで、例の縁組みの件はなかったということに…もし御子息が他家と縁組みされても島津家と黒田家はこれまでのように仲良くしましょう」
です。

桐野さんも記事の中で指摘してますが、やっぱりこの文書の一番の注目点は「先年以来申し談ずる縁中の儀」とか「彼の縁組」といわれているものですよね!ヾ(--;)…でも、縁組って誰と誰の縁組みやねんな…。
黒田家側の相手は上記の(注9)でも書きましたが、黒田長政養子(黒田如水甥)の松寿丸と断定できます(『黒田家文書1』p.351解説)。この当時の黒田家はこの松寿丸一人しか後継者候補がおらず、この当時の島津家同様男子の跡継ぎ不足だったんですね。ただこの松寿丸は2年後に早世してしまいます(○。○)…ところがこの前年から長政の後妻・栄姫が量産体制に入りましてヾ(^^;)、松寿丸は長生きしたら長生きしたで黒田家の懸案の種になったことは間違いないでしょう。薄幸の人ですね…。
では島津家側ですが、誰が候補になっていたのでしょうか?この文中に「拙者の儀」とあるので、義弘の孫娘の誰かと言うことが分かります。この頃未婚の義弘の孫娘と言えば
(1)豊州家・島津朝久の娘1(母は島津御屋地(義弘長女))
(2)豊州家・島津朝久の娘2(母同上)
(3)伊集院忠真の娘(母は島津御下(義弘次女)
の3人がいます。
このうち(3)は
・先年に父が謀反を起こしていること
・余りにも若年であること(慶長5年(1600年)生まれ、慶長6年時点で数え2歳)
と言う事から除外して良いかと。もっとも幼年で婚約する人もこの時代ざらにいますが…
(1)と(2)は残念ながら現存史料からでは生年が分からないのですが、父・朝久の没年(文禄5年(1596年)から最も遅く見積もっても次女が文禄6年(1597年)生まれ慶長6年時点で数え5歳、母の御屋地の年齢(文禄6年に44歳)から見るともっとさかのぼる可能性の方が高いかと。松寿丸の相手として考えられていたのは(1)か(2)でしょう。

あと、桐野氏は言及されてませんでしたが、この縁組みは島津家の総意で勧められていたのかどうかが気になります。島津家側にはこの縁談に関する史料が全く残ってないので推測になってしまうのですが、黒田家と親しいのはどうも義弘一人だけで、他の義久とか忠恒とか懇意にしていた様子が「黒田家文書」から伺えないことから、義弘の独断で勧められていたのではないかと。

なお松寿丸婚約者候補だった島津朝久と御屋地の娘たちのその後ですが
(1)→島津忠倍(島津忠長の長男)の妻となるが、若くして夫に先立たれ、自分も幼い娘を残して早世したらしい…
(2)→松平定行と政略結婚させられ、桑名(原三重県桑名市)にて早世…
と松寿丸同様長生きされなかったようです。長生きだった母・御屋地よりも当然先立ったわけで、御屋地にとっては大変つらかったことと思われます。
あと、(2)に関しては寺沢広高(or息子の堅高)との政略結婚が整う途中で破談になった疑惑があります。(ちなみに破談を仕掛けたのは島津家側の可能性が高いw)参照:桐野さんブログ(コメント欄のやりとり)、拙HP「伊東権頭娘」



今回は長文だったので1件にて終了。「黒田家文書」の島津関連史料紹介、もうちょっと続く。
※しかし、今回「さつま人国記」のバックナンバー見たら、これを書くきっかけになった記事が掲載されてから1年以上経ったことを知る_| ̄|○ とほほ…。

拙ブログ関連ネタ「安土桃山期の島津家と黒田家」


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5/26(火)にテレビ東京系で放送された『お宝なんでも鑑定団』では、ラストで大友家4代(義長、義鑑、義鎮(宗麟)、義統(吉統))の書状(中身は感状だった)が登場し、興味深く拝見致しました。この書状は既に史料集には所収されていた(=存在は確認済みだが所在不明だった)ものなのかな?
ただ書状には直接関係ないんですが、気になったのは
・島津氏が一方的に日向国に攻め込んで大友氏はその防戦をしたという内容の紹介だったこと その前に元々日向国を治めていた伊東氏が急速に弱体してとか色々あったわけで、島津氏が一方的に攻撃したわけではないんだが…
・「龍造寺」という名前すら全く言及されなかったこと_| ̄|○



以上小ネタ終了(^^;)
前回から2ヶ月近く開いてしまいましたが、まだ終わってない去年の大河がらみネタ続きです(滝汗)
今回ようやく本丸のネタ登場!…行き着くまでに時間かかりすぎ自分でも疲れました…

昨日は企参候の処、御丁寧
誠に以て外聞実儀畏み入り存じ候。仍って
自今以後別して御入魂に預かるべきの由承り候。
大慶至極に候。我等としても疎意無く、
向後申し談ずべく候。随って道仲(注1)にて
承り候一ヶ条(注2)の儀、御懇意謝し難く候。
何様入念の才覚申すべく候。巨細においては
道仲御到達あるべく候。恐惶謹言。

 六月二十八日   義弘(花押)
黒田甲斐守殿
        貴報
<157 島津義弘書状(19巻6号)>
(注1)道仲:「道中(どうちゅう)」かと思えるが、文章全体を見ると「道仲」という使者がいたようにも読める。皆様のご意見お待ちしております<(_ _)>
(注2)承り候一ヶ条:内容未詳
天正17年頃6月28日の文書です。黒田長政が「甲斐守」であること、島津義弘の「義弘」名乗り、義弘の花押の形などから年月はこの辺に想定されるとのこと(『黒田家文書』1巻p.335解説)。
解説によると「島津義弘が黒田長政に昨日訪問の折の歓待を謝し、今後疎意無く談合することを伝え」た文書だそうです(『黒田家文書』1巻p.335【大意】)。ざっと見た限りでは、この前後に本来は何か文書があったのではとも受け取れる内容です。が、それは現在は伝わってないので一体義弘と黒田長政の間でどういう約束をしたのか(「承り候一ヶ条」)、謎が多い内容です。
ともかく島津家が豊臣政権に敗北して割と早く(2年後)には長政と義弘の間にパイプができたことだけは分かります。「薩藩旧記雑録」後編には関ヶ原合戦後に義弘が黒田家(官兵衛孝高、長政)宛てに送った大量の書状を所収していますが、この時の縁を使った物と思われます。



今回紹介するのはこれのみ_(。_゜)/
次回はその関ヶ原の合戦後に義弘や忠恒が黒田家に送った文書を紹介する予定。意外な人も登場します(が、これまでいきつけるかなあ…)。

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