拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
『ドリフターズ』の製造者らしいこの方のツイートで吹いてしまいましたw
で、今回は島津に関係ないネタ(本当にすみません…)
タイトルの人はBS-TBSの番組でちらっと紹介されたので気になって資料を取り寄せてみた。
一般向けに紹介されたのはかなり以前なのだが、ネットで検索しても余りヒットせず、知名度はかなり低い人のようだ。
しかしこの大奥人気の中、何でこんなに知名度が低いのか、勿体ないネタではある。
というのも、ほとんどまともな史料のない元禄時代の大奥女中について、かなり詳しいデータが判明しているほぼ唯一の人物なのである。と言うか大奥の御殿女中で生没年、経歴などここまで分かるのはこの人ぐらいらしい。
と言う事で紹介してみたりする。
興味のある方は下の「つづきはこちら」をクリックプリーズ。
で、今回は島津に関係ないネタ(本当にすみません…)
タイトルの人はBS-TBSの番組でちらっと紹介されたので気になって資料を取り寄せてみた。
一般向けに紹介されたのはかなり以前なのだが、ネットで検索しても余りヒットせず、知名度はかなり低い人のようだ。
しかしこの大奥人気の中、何でこんなに知名度が低いのか、勿体ないネタではある。
というのも、ほとんどまともな史料のない元禄時代の大奥女中について、かなり詳しいデータが判明しているほぼ唯一の人物なのである。と言うか大奥の御殿女中で生没年、経歴などここまで分かるのはこの人ぐらいらしい。
と言う事で紹介してみたりする。
興味のある方は下の「つづきはこちら」をクリックプリーズ。
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ネットで検索していて「修身事蹟」なる本を見つけた。保田安政という人物の著で、巻末にはあの貝原益軒が後書きを書いている。貝原益軒はともかくとして、「保田安政」という人物はネットで検索した限りではよく分からない人物。他にも「商人百夜草」なる本の著者でもあるようで、教訓物とかハウツー物を得意とした人物と見受けられます。
内容ですが、ちらちら見る限りではいわゆる「女大学」のジャンルに属する読み物のようです。何しろサブタイトルが「婦女必読」だし(^^;)
この本に1つだけだが、島津光久後室・陽和院のネタが出ている。
2chのまとめブログに出てくるネタはどうもこれを元にしているようです。
興味深い内容なのでご紹介 旧字体は適宜変えています。原文を見たい方は後掲のリンク先を参照プリーズ(漢文じゃないので素人でも読めるかと)
個人的に気になるのが最初の内容
・承応帝:承応は1652~1654年、承応改元時の天皇は後光明天皇なので、承応帝=後光明天皇のこと。でも後光明天皇は承応3年にぽっくり亡くなってしまうのですが…
・匂当の内侍:匂当内侍(こうとうないし)は女官の役職名の一つで別名「長橋局」。ただしこれは非公式名で、正式には掌侍(しょうじ)の筆頭を指す。一番有名なのは新田義貞の関係者かな。朝廷の財政を管理したので裕福な人が多かったとか。
このうち「承応帝」こと後光明天皇の女官だったのは正しいのですが、陽和院は”弁内侍”といわれており(義兄の平松時量が書いた日記かなんかにそう書いてあった(うろ覚え))匂当内侍ではないです。
もう一つ気になるのは、島津光久が女官時代の陽和院を見て「嫁にゲットしたい」と言ったと言うこと。いつ京都の御所に行く機会があったんだよみっちーヾ(^^;)。もっと気になるのはそれに対して陽和院が「正妻の礼を取ってくれたら行くけど」と返事したということ。文を読むと「正妻の礼=支度金1万両」とも読めるが、実際の陽和院が結婚に至るまでの経過を見ると、それだけではないような気が…続く_(。_゜)/
近代デジタルライブラリーリンク先はこちら
内容ですが、ちらちら見る限りではいわゆる「女大学」のジャンルに属する読み物のようです。何しろサブタイトルが「婦女必読」だし(^^;)
この本に1つだけだが、島津光久後室・陽和院のネタが出ている。
2chのまとめブログに出てくるネタはどうもこれを元にしているようです。
興味深い内容なのでご紹介 旧字体は適宜変えています。原文を見たい方は後掲のリンク先を参照プリーズ(漢文じゃないので素人でも読めるかと)
島津光久の夫人 陽和院『』でくくられてる文は「はぁ~そうですか~」という内容ですが、何しろ先述したように本の目的が目的なのでともかくとしてヾ(^^;)
薩摩中将島津光久の夫人は、怜悧にして、姿色衆に優れ、且和歌に妙なり。陽和院と号す。初め、承応帝に仕えて匂当の内侍となる、光久嘗てこれを見て娶らんと望みしに内侍のいう『嫡夫人の礼を以て迎えられなば行くべし』と光久因て金一万両を贈り礼を厚くして迎えけり。
夫人一日侍女を誡めて曰く
『若き女子の花見遊山、さては寺詣などと云いて風流に出立は、皆、人に見られんとてゆくなり、女子の行儀にはよもあらじ、内裏の昔も今も、皆、女御達の礼として、檜扇を打翳し、姿を人に見せざるを常となすものを、今の若き女子は、綺羅を競いて形をつくり、面をあらわに人に見するは誠に恥ずかしきことならずや、世に、男は心美しく、女は姿美しき、ものとか云えど、如何に姿の美しとて、其の心美しからざらんは、こを誠の美人とは云われまじ、さるに其粧ひのみに心を入れて、姿の美しきを人に見するも、心あるものは其心醜きを笑いなん、実に口惜しき事ならずや、されば花見んとならば人無きところの花を見よ、寺詣せんとならば本堂より奥に入るべからず』
個人的に気になるのが最初の内容
・承応帝:承応は1652~1654年、承応改元時の天皇は後光明天皇なので、承応帝=後光明天皇のこと。でも後光明天皇は承応3年にぽっくり亡くなってしまうのですが…
・匂当の内侍:匂当内侍(こうとうないし)は女官の役職名の一つで別名「長橋局」。ただしこれは非公式名で、正式には掌侍(しょうじ)の筆頭を指す。一番有名なのは新田義貞の関係者かな。朝廷の財政を管理したので裕福な人が多かったとか。
このうち「承応帝」こと後光明天皇の女官だったのは正しいのですが、陽和院は”弁内侍”といわれており(義兄の平松時量が書いた日記かなんかにそう書いてあった(うろ覚え))匂当内侍ではないです。
もう一つ気になるのは、島津光久が女官時代の陽和院を見て「嫁にゲットしたい」と言ったと言うこと。いつ京都の御所に行く機会があったんだよみっちーヾ(^^;)。もっと気になるのはそれに対して陽和院が「正妻の礼を取ってくれたら行くけど」と返事したということ。文を読むと「正妻の礼=支度金1万両」とも読めるが、実際の陽和院が結婚に至るまでの経過を見ると、それだけではないような気が…続く_(。_゜)/
近代デジタルライブラリーリンク先はこちら
今回紹介させていただく資料は本城家関係の系図・文書が紹介されています。
「本城家???何それ?」
と思われる方が多いでしょうが、実は本城氏は島津(中務大輔)家久の末裔に当たる一族です。
戦国最強の釣り師ヾ(^^;)として知られる島津家久の末裔としては永吉島津家が有名ですが、途中で幾度か養子が入り、島津家久の血統ではなくなっています。本城家は島津豊久の弟・忠直(忠仍)の子孫に当たりますが、どうも家久・豊久の後を嗣がせてもらえなかったようなのです…というか今回の史料集を見ると、追い出されてしまったという方が近いようだ(○。○)
今回紹介させてもらう『伊佐市郷土史誌史料集一』では、その辺の裏事情が伺える史料が多く所収されています。
以前拙HPで「本城家文書」という物が存在するらしいと言う話は触れたことがあるのですが、当の『牧園町郷土誌』では肝心の文書自体が引用されておらず、鹿児島県立図書館の蔵書を検索してもそれらしい物が無くて、そのまま調査を中断していた経緯があります。
この『伊佐市郷土史誌史料集一』はその空白を埋める物であり、安土桃山時代~江戸時代初期の島津家分家の盛衰の経緯を詳しく知ることが出来る貴重な史料群と言えましょう。
おおまかな内容は以下の通り
・本城家文書:平成25年に本城家の末裔から寄贈された史料。系図(本城家分家)と由緒書(文書含む)から成り立っている。
・本城家家譜:市来四郎編「石室秘稿」に収録された本城家本家の家系図。
・明治14年12月菱刈郡里村針持村戸長役場文書
なお『伊佐市郷土史誌史料集一』は国立国会図書館(東京本館)には所蔵されていますが、鹿児島県立図書館では所蔵されてない模様_(。_゜)/
また一般の書店では販売されていません。伊佐市市立図書館に電話orFAXで購入問い合わせする必要があります。伊佐市公式HPでは書籍の紹介がありませんが(^^;)確かに頒布されてますのでご安心を
伊佐市市立大口図書館 ※菱刈図書館では受け付けてないので注意
電話 (0995)22-0417
FAX (0995)22-9420 購入申込書はこちら(PDF)
お値段は¥1000 別途着払いの送料がかかります(¥700ぐらいだったかな)
この本については、編纂副委員長を務められた春山直人氏から教えていただきました。春山氏からは拙HP+ブログにも以前より色々ご助言を頂いております。ありがとうございました<(_ _)>
拙HPもこの史料集見て手直ししなければいけないところが色々(^^;)
「本城家???何それ?」
と思われる方が多いでしょうが、実は本城氏は島津(中務大輔)家久の末裔に当たる一族です。
戦国最強の釣り師ヾ(^^;)として知られる島津家久の末裔としては永吉島津家が有名ですが、途中で幾度か養子が入り、島津家久の血統ではなくなっています。本城家は島津豊久の弟・忠直(忠仍)の子孫に当たりますが、どうも家久・豊久の後を嗣がせてもらえなかったようなのです…というか今回の史料集を見ると、追い出されてしまったという方が近いようだ(○。○)
今回紹介させてもらう『伊佐市郷土史誌史料集一』では、その辺の裏事情が伺える史料が多く所収されています。
以前拙HPで「本城家文書」という物が存在するらしいと言う話は触れたことがあるのですが、当の『牧園町郷土誌』では肝心の文書自体が引用されておらず、鹿児島県立図書館の蔵書を検索してもそれらしい物が無くて、そのまま調査を中断していた経緯があります。
この『伊佐市郷土史誌史料集一』はその空白を埋める物であり、安土桃山時代~江戸時代初期の島津家分家の盛衰の経緯を詳しく知ることが出来る貴重な史料群と言えましょう。
おおまかな内容は以下の通り
・本城家文書:平成25年に本城家の末裔から寄贈された史料。系図(本城家分家)と由緒書(文書含む)から成り立っている。
・本城家家譜:市来四郎編「石室秘稿」に収録された本城家本家の家系図。
・明治14年12月菱刈郡里村針持村戸長役場文書
なお『伊佐市郷土史誌史料集一』は国立国会図書館(東京本館)には所蔵されていますが、鹿児島県立図書館では所蔵されてない模様_(。_゜)/
また一般の書店では販売されていません。伊佐市市立図書館に電話orFAXで購入問い合わせする必要があります。伊佐市公式HPでは書籍の紹介がありませんが(^^;)確かに頒布されてますのでご安心を
伊佐市市立大口図書館 ※菱刈図書館では受け付けてないので注意
電話 (0995)22-0417
FAX (0995)22-9420 購入申込書はこちら(PDF)
お値段は¥1000 別途着払いの送料がかかります(¥700ぐらいだったかな)
この本については、編纂副委員長を務められた春山直人氏から教えていただきました。春山氏からは拙HP+ブログにも以前より色々ご助言を頂いております。ありがとうございました<(_ _)>
拙HPもこの史料集見て手直ししなければいけないところが色々(^^;)
表題の番組なんだが、最近の内容見てると「英雄たちの選択」じゃなくて「偉人たちの選択」に変更した方がいいと思ってるの私だけ?(^^;)
気を取り直して本題。
再放送も既に終わってしまったんですが、4/7放送の「女たちの江戸城無血開城」に、おそらく史上初公開?(TVでは本当に初めて放送されたようだ)の「篤姫と和宮のきもの」が登場していた。NHK番組公式HPにも載っている。向かって左の緑の打掛が篤姫のもので、右の白のきものが和宮の物とのこと。写真で見る限りでは篤姫のは合物~冬物で、和宮のは麻製の盛夏の帷子と推察される。
番組では柄行きから単純に篤姫と和宮の性格を類推していたが、実は江戸後期以降になると武家や公家の場合はきものの柄というのはかなり制約があって(特に武家)、柄行きに着用者本人の性格まで反映されていることの方が珍しいかと。ただ、きものに詳しくない方でも2つのきものの柄行きがかなり違うのは感じてもらえるかと思う。篤姫のは今でも留袖に多く見られる裾模様。和宮のは草木が裾から肩辺りまで延びた模様で、これは江戸後期の公家のきものに典型的な柄行きである。また独特の特徴として、鳳凰の刺繍が肩辺りに縫い取られているが、これは天皇家の姫や妃など限定的に許された高貴な物で、いかにも「宮様のきもの」というアピールをしている。
まあ、通説で言われている「武家代表篤姫vs朝廷代表和宮」という対立の構図ですが、着ていた物からはしっかり裏付けられたわけです(^^;)
問題なのは番組後半での再現イラストで出てきた、着用予想(?)図。
左の篤姫は、打掛なんで問題ないんだが…
右の和宮のは帷子(真夏のきもの)なので、上から羽織っているというのはあり得ないのですな。
実際に着用したきものを再現絵でも使うというアイデアは良かったけど、後世の人(=私ら)が見たら「それが正しい」と思いっきり誤解するので、ちょっと考慮して欲しかったです…。
なお篤姫と和宮が新政府軍に次々と嘆願書を送ったというのは冬~春(正月~3月)なんで(^^;)麻の着物着ていること自体があり得ないのでした…。
気を取り直して本題。
再放送も既に終わってしまったんですが、4/7放送の「女たちの江戸城無血開城」に、おそらく史上初公開?(TVでは本当に初めて放送されたようだ)の「篤姫と和宮のきもの」が登場していた。NHK番組公式HPにも載っている。向かって左の緑の打掛が篤姫のもので、右の白のきものが和宮の物とのこと。写真で見る限りでは篤姫のは合物~冬物で、和宮のは麻製の盛夏の帷子と推察される。
番組では柄行きから単純に篤姫と和宮の性格を類推していたが、実は江戸後期以降になると武家や公家の場合はきものの柄というのはかなり制約があって(特に武家)、柄行きに着用者本人の性格まで反映されていることの方が珍しいかと。ただ、きものに詳しくない方でも2つのきものの柄行きがかなり違うのは感じてもらえるかと思う。篤姫のは今でも留袖に多く見られる裾模様。和宮のは草木が裾から肩辺りまで延びた模様で、これは江戸後期の公家のきものに典型的な柄行きである。また独特の特徴として、鳳凰の刺繍が肩辺りに縫い取られているが、これは天皇家の姫や妃など限定的に許された高貴な物で、いかにも「宮様のきもの」というアピールをしている。
まあ、通説で言われている「武家代表篤姫vs朝廷代表和宮」という対立の構図ですが、着ていた物からはしっかり裏付けられたわけです(^^;)
問題なのは番組後半での再現イラストで出てきた、着用予想(?)図。
左の篤姫は、打掛なんで問題ないんだが…
右の和宮のは帷子(真夏のきもの)なので、上から羽織っているというのはあり得ないのですな。
実際に着用したきものを再現絵でも使うというアイデアは良かったけど、後世の人(=私ら)が見たら「それが正しい」と思いっきり誤解するので、ちょっと考慮して欲しかったです…。
なお篤姫と和宮が新政府軍に次々と嘆願書を送ったというのは冬~春(正月~3月)なんで(^^;)麻の着物着ていること自体があり得ないのでした…。
前回放送時に見られなかった方+録画失敗した方はどうぞ
「戦国 奇跡の生き残り術・島津義久」2016年4月26日夜10:00~10:45 再放送決定
※但し、熊本の地震関係で中断・速報入りまくりの可能性があります
…かくいう私、まだ怖くて録画見てない(をい)
拙ブログ関連ネタこちら
「戦国 奇跡の生き残り術・島津義久」2016年4月26日夜10:00~10:45 再放送決定
※但し、熊本の地震関係で中断・速報入りまくりの可能性があります
…かくいう私、まだ怖くて録画見てない(をい)
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