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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
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前回のお話はこちら



実は日本最古の民家・箱木千年家を見に行くときに、一緒に見ておきたい建て物があった。
時間的に無理かと思っていたのだが…
数少ない「1時間に2本バスのある時間帯」にぶつかったので、途中下車して見に行ってしまいました。
同じ市内に住んでいてもこの辺はなかなか行ける機会もないので。

ご興味のある方は「つづきはこちら」をクリックぷり~ず。



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先日NHKBSプレミアムで放送された「英雄たちの選択 加藤清正 熊本築城」を拝見したのだが、それにVTR出演されていた八代市立博物館学芸員の林千寿氏が
「加藤清正は独自の構想を持っていたから、関ヶ原の合戦の時に本戦に参加しなかった、それは豊臣秀頼のために九州に独自の勢力を築こうとしたから 島津家にも徳川と和平を結ばせようとしているのはその表れ」
と言う事を言ってられたのだが、こういう書状を知っていると「え~ご冗談を」ヾ(^^;)としか思えないです…
というか、清正が島津家と徳川家の間を取り持ったという証拠or論文を誰か御教示御願い致しまする。

それでは本日のネタにまいる。


戦前の神戸のお大尽の御殿を一瞬の差?で見逃したのが余りにも悔しくて、
前から見に行きたかったんだけどなかなか見に行けなかった「ここ」をリベンジついでに見に行くことを決意する。

続きは下の「つづきはこちら」ボタンをクリック。

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昨日、ネットで「ザクザクババア川」という川が埼玉県に実在していると言うことが話題になっていたが、
ここまで強烈ではないが、兵庫県神戸市にも貧乏川というのがありましてな

では本題

今までのお話はこの辺り 

先日こういう本を入手したのだが
この本のp.214~215にこんな話が出ている。
秀次と一の台の婚姻
(中略)
秀次が正室として迎えた相手は、一の台という女性であった。一の台は、公家の菊亭晴季の娘である。晴季は、最後は右大臣にまで上り詰めた人物である。『菊亭家譜』によると、晴季の長女として一の台が誕生していることを確認できる(中略)
では、なぜ秀次は一の台を、妻として迎えたのだろうか。そのあたりは、義父である秀吉の思惑が絡んでいる。
先述したとおり、「関白争論」を契機として、秀吉と深いつながりをもったのが菊亭晴季であった。朝廷、公家への対策という点で、秀吉は晴季を重用するようになる。となると、両者はその関係を、更に強固なものにする必要があった。その一つの方法こそが、結婚を介した物だったのである。
秀次と一の台が結婚した時期は、明らかにされていないが、秀吉が関白に就任前後の天正13,14(1585,86)頃が有力視されている。(後略)
渡辺大門氏は「一の台=豊臣秀次の正室」説なんだろうか。いや、この文をそのまま読むとそうなるけれども。
というか、豊臣秀次の閨累関係をちゃんと整理した論文とか本とかあるんだろうか…

<追記>
『真田丸』では秀次ご昇天されてしまいましたな 狙ってこのネタ振ったつもりはなかったんだが、ご冥福をお祈りします

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5日前にあった参議院選挙なんだが
今回から選挙権が18才まで引き下げられ、内憂外患多発する中、国政を左右するたぶん大事な選挙のはず
なんだが
バングラデシュのテロとかいろんな事件があって、盛り上がらなかったですね…関西でも何故か東京都知事選の話題ばっかりでした。関係ないのに。
ついでに鹿児島県知事選もやってたんですね。木下ほうかさんが新知事なんですね!お目出度うございます!(違)

気を取り直して。今回のネタはこの話関連です。



『明史』「日本伝」を読んでいて、気になる人物を見つけた。
ただし、1回しか登場しない。

・以下、引用文は『倭国伝』(講談社学術文庫版)の書き下しを利用しております
・注記、下線はばんないによる物です
数年を越えて(注1)、その事(注2)始めて露れ、乃ち賢(注3)を族し(注4)、日本を怒ること特に甚し。意を決してこれを断ち、専ら防海を持って務めとなす。然れどもその時、王子の滕祐寿なる者来たりて国学(注5)に入る。帝猶お善く之を待す。
『明史』巻322,外国3「日本伝」
(講談社現代新書版、p.348)
<注記>
(1)数年を越えて:洪武19年より数年後
(2)その事:洪武帝の功臣・胡惟庸が謀反を企んだとされ、関係者が大量処刑されるという事件(胡惟庸の獄)があった
(3)賢:林賢、寧波の防衛責任者であった(「寧波衛の指揮」をしていたと『明史』にある) 先述の胡惟庸に荷担していたと決めつけられて処刑される
(4)族し:一族全員死刑に処せられる刑

胡惟庸の獄事件に荷担したとされ(現在の研究では、胡惟庸排斥と倭寇排斥を絡めた洪武帝の陰謀という説が有力らしい)、日本は来航自体を明に禁止されてしまうというとばっちり(?)を受けるが、この時にやってきた学生一人だけは明に上陸することが許されたらしい。
この「滕祐寿」、講談社学術文庫の補注では「藤原祐寿(ではないか)」と推測している。
…が、どうもこの人物が誰なのかまだ特定されていないようなのである(ネットで調べた限りだけどヾ(--;))
私も室町前期はさっぱりなので、全くあてもなく放置してたんだが

「もしかして」と突然ひらめいたのである。
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ちょっと古いニュースですが スルッとkansai廃止 島津家関連他いろんな史跡巡りによく使っていたのでショック…特にお得度が高かった3dayチケット、2dayチケットも廃止だそうです。・゚・(つд∩) ・゚・ 。
今度の私の史跡巡りは、交通費高騰???とにらめっこすることになりそう…

では気を取り直して 七夕に関係があるような無いようなネタです。



光成準治『関ヶ原前夜―西軍大名たちの戦い (NHKブックス) 』p.255で紹介されていたのだが、書き下し文+一部省略されていたので、こっちでは原文+全文掲載してみる。
「御文庫二十三番箱16巻中」「久保公御譜中案文在八木主水元信トアリ」
 起請文 天正十九年五月二十二日 草案
一 今度以神載可被抽忠懃之趣、諶感懐之至、弥御頼母敷
  儀候、就夫於 龍伯様・義弘御前ニ自然不慮之邪説可
  出合刻者、我〃進退ニ乍不似合、應時之子細ニ懇可到
  入魂事、
一 縁重之儀、依 天下様御<口愛>如此候之上者、向後、互遺恨
  有間敷事、
一 就其方之儀、萬一讒言之仁可有之時者、委敷可申通、
  又於下〃ニ、左様之沙汰被聞付次第承候者、忽糾明之
  儀可遂談合、殊更代〃忠節之佳名□他之条、到私茂別
  而指南之儀所希也、就中在洛而已之砌候間、京都共ニ
  偏可頼入事、
   又一様より幸侃へ御返書

 「末紙ニ、又一様より幸侃へ御神文案」 

「薩藩旧記雑録」後編2-761(『鹿児島県史料』「薩藩旧記雑録」後編2 p.510)
光成氏によると、この中で出てくる「縁重の儀」というのは伊集院忠真と島津御下の婚約のことを指しているのだという。
ふむ。わたしは久保の起請文だから、すっかり久保と亀寿のことかと思っていたのだが、考えてみたら宛先(予定者)が伊集院忠棟だから忠真と御下のことを指してると考えるのが自然なのか。

しかし、この考えでいくと、実は奇妙な問題があることに気が付く。
別の史料では島津御下は別の人物と婚約しているのである。
頴娃弥三郎久音 袈裟寿 久虎子天正十一年母相原氏女(中略)慶長二年高麗御供ニテ罷渡リ 義弘公ヨリ今度無恙於致帰国者本領頴娃ヲ被返下聟ニ可被遊之由御意ヲ承知仕候同三年十月八日於朝鮮病死十六歳
「本藩人物志」(『鹿児島県史料集』p.142)
義弘には娘は2人いるが、長女の御屋地はすでに島津朝久と結婚していたから、この時に頴娃久音に嫁に出せる娘は御下しかいないのである。
それとも実は御下は天正19年にはもう伊集院忠真と婚約済みだったのだが、それから6年も経った慶長2年(1597年)になってから、義弘は頴娃久音にも御下を嫁にやるという二股約束をしたのだろうか…もしそうだとしたら実はかなり黒い義弘ヾ(--;)

あと、この「縁重之儀」、豊臣秀吉の口利きによるとも読める(依 天下様御<口愛>如此候)。光成氏説が正しいとすると、大名の家臣(の子息)の結婚まで秀吉が世話したということになるが。はてさて。

暇のある方は関連ネタを書いてますのでしたの「つづきはこちら」をクリック宜しくお願いします<(_ _)>


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