拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
先日、再来年(2018年)の大河のネタが発表されましたが、なんと「西郷隆盛」だそうです
西郷隆盛は『翔ぶが如く』で既にネタになっていますが、20年以上経っていると言うことで再登場OKということなんでしょうか。
しかし2018年版大河の原案が林真理子氏と言う話を聞くと、非常に不安の方が大きいですヾ(--;)
ということで
本日のネタは今年の大河ドラマで山本耕史氏の熱演が話題のあの方関連のお話です。
最近、『武将の末裔』と言うムックを読み、続編の『武将の末裔 平成の陣』も見たのだが
続編の方に「石田三成の子孫」という方が登場していた。
2015年に東京で行われた『大関ヶ原展』関連のシンポジウムでギャラリーの一人として登場し、それがきっかけとなったのか、後日木下延俊の末裔(日出藩木下家当主)や大谷吉隆の末裔らと座談会をした石田秀雄氏と言う人物である。
石田秀雄氏の言によると、
三成の長男・重家の末裔であり、妙高で庄屋を務めていたが、明治維新後東京に上京、八王子で暮らしていたところ、第2次世界大戦末期の八王子空襲で代々の家宝や由緒書など一切を失い、現在出自を証明する物は所有されてないという。
ところで、近年(と言っても20年ぐらい前くらいからのように記憶するが)「石田三成の子孫」を名乗る人が結構出て来たように思う。
史料的にもはっきりしているのは、津軽家に庇護された三成の次男の子孫であり、ここが三成マニアヾ(^^;)にも一番有名な末裔かと。なお、津軽家自身も三成の女系の子孫だったのだが、幕末に養子が入って血縁は絶えている。
20年ぐらい前から石田三成に関する本を新人物往来社からたくさん出版した白川亨氏も石田三成の末裔を称されていたそうだが、系譜は管見では公表されていたのを知らないので不明。
近年雑誌などで良くお見かけする「三成末裔」と言えば石田多加幸氏が有名かと。先述の三成の次男の末裔らしいが、wikipediaによると次男系の系図には関係人物が掲載されてないらしい(苦笑)
近年「石田三成の末裔」の露出が増えてきた背景には
「三成の見直しが進んだから」
と言う事情があるだろう。
私の記憶が確かならば、昭和50年代まで三成のイメージは良い物ではなかった。大河ドラマ『おんな太閤記』ではあの鹿賀丈史が淀殿@池上貴美子とタッグを組んでねね@佐久間良子を窮地に陥れる悪役を毒々しく演じていた(爆)が、これがそれまでの一般的な石田三成像でもあった。
ところがその頃から司馬遼太郎『関ヶ原』で三成は「くそまじめな忠義の家臣」として描かれるなど、イメージが変わり始める。ちなみにこの話はその後TBSでスペシャルドラマ化されたが、三成を演じたのはあの加藤剛だった。
とどめがゲーム。特に『戦国無双』で三成のビジュアルがえらいことになったことで、女性に人気急上昇、現在まで続く「歴女」ブームの原因にもなったのではと思われる(爆)
近年のこういう石田三成人気の上昇で、子孫の方も出やすくなったのが「石田三成末裔」の大量出現ヾ(^^;)につながっているのではないだろうか。
拙ブログ関連ネタ
「小西行長に子孫っているの?」 その1 その2
関係有るようで無いかもしれないニュースヾ(--;)
歌手・プリンスの死後に親族が700人も出て来たという件
西郷隆盛は『翔ぶが如く』で既にネタになっていますが、20年以上経っていると言うことで再登場OKということなんでしょうか。
しかし2018年版大河の原案が林真理子氏と言う話を聞くと、非常に不安の方が大きいですヾ(--;)
ということで
本日のネタは今年の大河ドラマで山本耕史氏の熱演が話題のあの方関連のお話です。
最近、『武将の末裔』と言うムックを読み、続編の『武将の末裔 平成の陣』も見たのだが
続編の方に「石田三成の子孫」という方が登場していた。
2015年に東京で行われた『大関ヶ原展』関連のシンポジウムでギャラリーの一人として登場し、それがきっかけとなったのか、後日木下延俊の末裔(日出藩木下家当主)や大谷吉隆の末裔らと座談会をした石田秀雄氏と言う人物である。
石田秀雄氏の言によると、
三成の長男・重家の末裔であり、妙高で庄屋を務めていたが、明治維新後東京に上京、八王子で暮らしていたところ、第2次世界大戦末期の八王子空襲で代々の家宝や由緒書など一切を失い、現在出自を証明する物は所有されてないという。
ところで、近年(と言っても20年ぐらい前くらいからのように記憶するが)「石田三成の子孫」を名乗る人が結構出て来たように思う。
史料的にもはっきりしているのは、津軽家に庇護された三成の次男の子孫であり、ここが三成マニアヾ(^^;)にも一番有名な末裔かと。なお、津軽家自身も三成の女系の子孫だったのだが、幕末に養子が入って血縁は絶えている。
20年ぐらい前から石田三成に関する本を新人物往来社からたくさん出版した白川亨氏も石田三成の末裔を称されていたそうだが、系譜は管見では公表されていたのを知らないので不明。
近年雑誌などで良くお見かけする「三成末裔」と言えば石田多加幸氏が有名かと。先述の三成の次男の末裔らしいが、wikipediaによると次男系の系図には関係人物が掲載されてないらしい(苦笑)
近年「石田三成の末裔」の露出が増えてきた背景には
「三成の見直しが進んだから」
と言う事情があるだろう。
私の記憶が確かならば、昭和50年代まで三成のイメージは良い物ではなかった。大河ドラマ『おんな太閤記』ではあの鹿賀丈史が淀殿@池上貴美子とタッグを組んでねね@佐久間良子を窮地に陥れる悪役を毒々しく演じていた(爆)が、これがそれまでの一般的な石田三成像でもあった。
ところがその頃から司馬遼太郎『関ヶ原』で三成は「くそまじめな忠義の家臣」として描かれるなど、イメージが変わり始める。ちなみにこの話はその後TBSでスペシャルドラマ化されたが、三成を演じたのはあの加藤剛だった。
とどめがゲーム。特に『戦国無双』で三成のビジュアルがえらいことになったことで、女性に人気急上昇、現在まで続く「歴女」ブームの原因にもなったのではと思われる(爆)
近年のこういう石田三成人気の上昇で、子孫の方も出やすくなったのが「石田三成末裔」の大量出現ヾ(^^;)につながっているのではないだろうか。
拙ブログ関連ネタ
「小西行長に子孫っているの?」 その1 その2
関係有るようで無いかもしれないニュースヾ(--;)
歌手・プリンスの死後に親族が700人も出て来たという件
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前の話はこちら。
今回は、姜沆の極秘?日本報告書の中でぽつぽつ出てくる島津関連のネタを紹介します。
(頭注)
(1)『看羊録』はいろいろな本に所収されていますが、今回使うのは東洋文庫版です。
(2)[ ]→翻訳を担当した朴鐘鳴氏による補注
(3)<>→著者の姜沆自身による補注
加藤清正:10000人
島津義弘:10000人
※参照wikipediaこちら本当は「旧記雑録後編」見なきゃいけないのは分かってるんだけど手抜き。ごめんなさい。
注2「臼杵」:現在の延岡市・東臼杵郡・西臼杵郡の全域 ※コメントでの指摘により改訂しました(2016/9/8)
注3「児湯府」:現在の宮崎県児湯郡
注4「贈於府」:現在の鹿児島県霧島市(旧曽於郡)
注5「始羅」:現在の鹿児島県姶良市(旧姶良郡) ※コメントでの指摘により改訂しました(2016/9/8)
注6「駒路」:馭謨(こもす) 現在の屋久島
注7「熊尾」:熊毛 現在の種子島
注8「多祢島」:種子島と思われるが、すでに熊毛郡を書いているので重出になる
注9「款娃」:頴娃 現在の鹿児島県南九州市(旧頴娃町)
注10「結黎」:給黎 現在は鹿児島県鹿児島市(旧喜入町)
注11「渓山」:谿山 現在は鹿児島県鹿児島市谷山
注12「興小島」:不詳
今回は島津家に関係している部分だけピックアップしましたが、姜沆は日本各地をこの調子で分類してます。食い物と着る物と紙があることが大事みたいです。
それにしても日向国。秋月とか高橋とか伊東とかいないことになってる(爆)というのは置いといて、薩摩情報は詳しいが大隅・日向は雑な印象。つまり姜沆の情報源が上方の僧侶が多そうと言う推測からすると、上方では大隅・日向は秘境扱い?ヾ(^^;)
前回の記事で紹介した話でも登場したのと同じエピソード。確かに本能寺の変後、九州全土配下に置きかけたのは事実なんだが、時系列が偶々そうなっただけで、信長の死をきっかけに九州北上したわけではないと思う。
あと上記の引用では省略したが、九州御動座した後に、家康と小牧長久手合戦したことになってるw
』などで紹介されています。一般書ではにもコラムが載っているらしい。
ともかく許儀後が助命されたのは徳川家康の取り成しがあったからで、姜沆は誰にこんなガセネタつかまされたのか分からないんですがヾ(^^;)秀吉の温情なんか無かったことは知らなかったようです。
』に詳しい。
注2:原文は「轘」(unicode:u+8f58、utf+8:E8BD98)
注3:竜蔵寺:龍造寺政家。と言ってもこの時期の龍造寺氏を実際に差配していたのは鍋島直茂なのは常識の話。
私の記憶では「薩藩旧記雑録後編」などに該当するような事件の記載は無し。ただ、訳者の朴鐘鳴氏によると「征韓録」に慶長6年(1601年)伊丹屋助次郎事件という、この記述と似たような事件があったらしいので、この手のもめ事は結構あったのかも知れない。
なお、朝鮮交易に関して寺沢正成(当時唐津領主)と宗義智(対馬領主)が関知していたというのは分かるのだが、南方については島津と龍造寺が担当していたというのは興味深い内容。長崎とか平戸のある肥前国の領主が龍造寺(中身は鍋島ですが 苦笑)だったからこう見えたのかな。
「看羊録」で直接島津に関連した話はこれくらいかと。
他、姜沆は関ヶ原合戦勃発の直前に日本に連行されてきたので、その辺りの記述がいろいろ興味深い。
しかし、かなり量が多いので項を変えて続く。
今回は、姜沆の極秘?日本報告書の中でぽつぽつ出てくる島津関連のネタを紹介します。
(頭注)
(1)『看羊録』はいろいろな本に所収されていますが、今回使うのは東洋文庫版です。
(2)[ ]→翻訳を担当した朴鐘鳴氏による補注
(3)<>→著者の姜沆自身による補注
私が細かく聞いたところによれば、清正らの軍は各々数千に見たず、ただ[島津]義弘領いるところの[軍]八千だけが何年も攻戦して、死傷者が大半を数えると言うことです。実際の所は
「賊中封琉」p.76
加藤清正:10000人
島津義弘:10000人
※参照wikipediaこちら本当は「旧記雑録後編」見なきゃいけないのは分かってるんだけど手抜き。ごめんなさい。
日向<向州>。中管(注1)で五郡注1「中管」:土の品質の事。大、上、中、下というランク分け
臼杵(注2)、児湯府(注3)、那珂、宮崎、諸県。
四方三日ほど。桑・麻・五穀が平均していて、飢えや寒さを知らない。中中国である。
<○島津兵庫[頭]義弘がこれを食邑としている>
大隅<隅州>。中管で八郡。
大隅、菱刈、桑原、贈於府(注4)、始羅<始は、または姑にも作る>(注5)、肝属<[属は]または附にも作る>、駒路(注6)、熊尾(注7)、多祢島<郡外で、海中にある>(注8)。
[行程は]東西二日ほど。小国ではあるが、食[物]類が豊富で、魚類も多い。紙・帛が、とくに豊かである。中上国である。
<○[島津]義弘がこれを食邑としている>
薩摩<薩州>。中管で一四郡。
出水、高城、薩摩、日置、伊佐、阿多、河辺、款娃(注9)、指宿、結黎(注10)、渓山(注11)、興小島(注12)、鹿児島、甑島。
四方二日ほど。小国ではあるが、唐[の国]と隣接しているので、武具などをこれに備えている。しかし、桑、麻の衣服はない。中上国である。
<○[島津]義弘がこれを食邑としている>
「賊中聞見録」p.128~129
注2「臼杵」:現在の延岡市・東臼杵郡・西臼杵郡の全域 ※コメントでの指摘により改訂しました(2016/9/8)
注3「児湯府」:現在の宮崎県児湯郡
注4「贈於府」:現在の鹿児島県霧島市(旧曽於郡)
注5「始羅」:現在の鹿児島県姶良市(旧姶良郡) ※コメントでの指摘により改訂しました(2016/9/8)
注6「駒路」:馭謨(こもす) 現在の屋久島
注7「熊尾」:熊毛 現在の種子島
注8「多祢島」:種子島と思われるが、すでに熊毛郡を書いているので重出になる
注9「款娃」:頴娃 現在の鹿児島県南九州市(旧頴娃町)
注10「結黎」:給黎 現在は鹿児島県鹿児島市(旧喜入町)
注11「渓山」:谿山 現在は鹿児島県鹿児島市谷山
注12「興小島」:不詳
今回は島津家に関係している部分だけピックアップしましたが、姜沆は日本各地をこの調子で分類してます。食い物と着る物と紙があることが大事みたいです。
それにしても日向国。秋月とか高橋とか伊東とかいないことになってる(爆)というのは置いといて、薩摩情報は詳しいが大隅・日向は雑な印象。つまり姜沆の情報源が上方の僧侶が多そうと言う推測からすると、上方では大隅・日向は秘境扱い?ヾ(^^;)
<(中略)注1「国内に変事がある」:本能寺の変のこと。
島津兵庫頭義弘は、代々、薩摩などの三州に拠っていたのだが、国内に変事がある(注1)のに乗じて、九州一島を併呑した。秀吉は、また往ってこれを攻めた。義弘は、以前に所有していた三州に拠り、それ以外は全部[秀吉に]献じた。
(後略)>
「賊中聞見録」p.153
前回の記事で紹介した話でも登場したのと同じエピソード。確かに本能寺の変後、九州全土配下に置きかけたのは事実なんだが、時系列が偶々そうなっただけで、信長の死をきっかけに九州北上したわけではないと思う。
あと上記の引用では省略したが、九州御動座した後に、家康と小牧長久手合戦したことになってるw
<(中略)島津ヲタなら知っているかも知れない許宣後こと「許儀後」。また「許三官」と言う名前でも史料に登場しますが…この人がどういう人かというと、これですね→薩摩と明福建軍との合力計画!…と書くとかっこいいんだが、要は島津と福建軍門で合同して秀吉暗殺しちゃおうぜ、と言う成功率がかなり低そうなヤバイプロジェクトである…ヾ(^^;)これについては長節子氏による論文や増田勝機氏の『薩摩にいた明国人
中国の人、許宣後なるものが薩摩州に漂着し、売薬をして生計を立てていたが、倭の秘密を詳しく書いて、それを明朝に報告した。隣にいた唐人が、ひそかにその書を盗み、浅野弾正[少弼長政]に告げた。弾正は、秀吉にこの事を知らせ、宣後を生きたまま[捕えて]倭京にとどけた。側近の者がみなこれを烹ようとしたが、秀吉は、
「彼は大明国の人である。大明のために日本のことを知らせたのは、道理としていけないわけではない。それに、人の不意に出るのは、実は私の本心ではない。大明にあらかじめ準備させるのも、別にいけないことではなかろう。まして、昔から、帝王はみな下々から起こった者である。大明に、私が元賤しかったことを知らしめたとしても、何ら害になることはない。」
と言って、宣後[の罪]を不問にした。かえって、密告者に、
「汝もやはり大明の人間でありながら、敢えて大明の人を訴えた。汝こそが凶人である。」
と言った。>
「賊中聞見録」p.154
ともかく許儀後が助命されたのは徳川家康の取り成しがあったからで、姜沆は誰にこんなガセネタつかまされたのか分からないんですがヾ(^^;)秀吉の温情なんか無かったことは知らなかったようです。
<琉球の一国が、最も薩摩国に近く、島嶼も入り組んでいて、水路として大変便利であった。それで、それで、秀吉は、兵を移して琉球を撃とうとした。[島津]薩摩守義弘が、大いに恐れをなし、秀吉の寵臣、石田治部少輔[三成]なる者に沢山の賄賂を送って、与太ネタに引っかかっていることが多いヾ(--;)姜沆ですが、この話はほぼ史実通りです。ただ、この琉球関連に携わっていたのは義弘じゃなくて義久の方。この辺は『琉球王国と戦国大名: 島津侵入までの半世紀 (歴史文化ライブラリー)
「琉球は、国としてはただちっぽけな2つの島から成り、取り立てて珍奇・宝貨があるわけでもありません。並みもわざわざ、民衆を動員して労させるほどのことはありますまい。」
と秀吉を説得させた。そして、琉球人を引き連れ、書をもたらし、方物を届けさせて、秀吉に謝罪させたので、秀吉は[琉球攻略を]取り止めた。>
「賊中聞見録」p.156
<何日もしないうちに、飛報がまたあって、唐兵が泗川の倭、[島津]義弘の陣を囲んだ、義弘が負けた振りをして城に入り、城門を閉めなかった、唐兵が城中に乱入したところを、義弘が兵を放って突撃し、城に入った者で生き残った者はいない、ということであった。群倭は、これを聞いて、やや生気を取り戻したが、倭奴は手柄を誇張するから、その真偽の程は分からない>あの有名な泗川の戦いのお話。話盛ってるって言われてる(^^;)
「賊中聞見録」p.166-167
前年(注1)の八月、福建辺りの商船が薩摩州に向かってきたところ、海辺の倭卒が舟をそろえ、武装兵を載せ[て商船を襲い]、商人だけを残してその宝貨を奪い取りました。商人等は非常に怒り、遂に薩摩州にやってきて、このことを[島津]義弘の部下に愬えました。義弘は家康に報告し、[宝]貨を奪った者を倭京に生かしたまま捕らえてきて、一人残らずくるまざき(注2)の刑を加え、その[宝]貨を持ち主に返しました。注1:1599年(慶長4年)
天竺などの国は、倭奴[の国]とは絶縁の地でありますが、倭奴は往来を絶やしません。福建の商船や、南蛮・琉球・呂宋などの商船は、[島津]義弘と竜蔵寺(注3)が管領し、我が国の往来船は、[寺沢志摩守]正成と、[宗対馬守]義智が管領しております。
「詣承政院啓事」p.227-228
注2:原文は「轘」(unicode:u+8f58、utf+8:E8BD98)
注3:竜蔵寺:龍造寺政家。と言ってもこの時期の龍造寺氏を実際に差配していたのは鍋島直茂なのは常識の話。
私の記憶では「薩藩旧記雑録後編」などに該当するような事件の記載は無し。ただ、訳者の朴鐘鳴氏によると「征韓録」に慶長6年(1601年)伊丹屋助次郎事件という、この記述と似たような事件があったらしいので、この手のもめ事は結構あったのかも知れない。
なお、朝鮮交易に関して寺沢正成(当時唐津領主)と宗義智(対馬領主)が関知していたというのは分かるのだが、南方については島津と龍造寺が担当していたというのは興味深い内容。長崎とか平戸のある肥前国の領主が龍造寺(中身は鍋島ですが 苦笑)だったからこう見えたのかな。
「看羊録」で直接島津に関連した話はこれくらいかと。
他、姜沆は関ヶ原合戦勃発の直前に日本に連行されてきたので、その辺りの記述がいろいろ興味深い。
しかし、かなり量が多いので項を変えて続く。
実はこれは『明史』関連じゃなくて、今田さん関連で読み始めた本をずらずらたどっていったら、はるばるここまでたどり着いたという…というか、戦国島津に興味有るならもうとっくにこれくらい読んどけよと言われても仕方がない(-_-;)
『看羊録』というのがどういう物かと言うことについてはこちら。
著者の姜沆(カン・ハン)は、捕虜として日本に連行されてしまうのですが、色々あって(※説明するとかなり長くなるので省略)最後の方では「それならいろんな事を記録して、いつか母国が日本に襲来し逆襲する手助けにしよう!」…と、秀吉政権の上層部に渡ることまで、どこでどうやって手に入れたのか不思議なんですが、かなり詳しい日本事情を記録しています。
内容は
・賊中封琉:連行中に危険を冒して朝鮮王に送った上奏文
・賊中聞見録:連行中に見聞きした日本情報を項目別に章立てて書いたもの
・告俘人檄:日本で捕虜になっていた朝鮮人に宛てた檄文
・詣承政院啓辞:帰国してから朝鮮王に報告した上申書
・渉乱事迹:帰国してから書いた回想録
から成り立ってます。
そのなかで、島津氏に言及した箇所があります。ネットで検索した限りでは紹介されてないようなので、今回拙ブログで書いてしまおう。
ではまいる。
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『看羊録』というのがどういう物かと言うことについてはこちら。
著者の姜沆(カン・ハン)は、捕虜として日本に連行されてしまうのですが、色々あって(※説明するとかなり長くなるので省略)最後の方では「それならいろんな事を記録して、いつか母国が日本に襲来し逆襲する手助けにしよう!」…と、秀吉政権の上層部に渡ることまで、どこでどうやって手に入れたのか不思議なんですが、かなり詳しい日本事情を記録しています。
内容は
・賊中封琉:連行中に危険を冒して朝鮮王に送った上奏文
・賊中聞見録:連行中に見聞きした日本情報を項目別に章立てて書いたもの
・告俘人檄:日本で捕虜になっていた朝鮮人に宛てた檄文
・詣承政院啓辞:帰国してから朝鮮王に報告した上申書
・渉乱事迹:帰国してから書いた回想録
から成り立ってます。
そのなかで、島津氏に言及した箇所があります。ネットで検索した限りでは紹介されてないようなので、今回拙ブログで書いてしまおう。
ではまいる。
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