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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
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幕末ヲタの人には、現在も京都市上京区の同志社大学の近所にある相国寺という寺が島津家にゆかりのある寺というのは常識の話かと思う。ちなみに同志社大学は旧薩摩藩邸跡に建っている(薩摩藩邸→山本覚馬邸→同志社、と言う経緯)。あ、この辺も常識かf(^_^;)
拙ブログでも、前の記事でこういう話を紹介させていただいた。

ところが今回別件の検索で、相国寺と島津家の縁は江戸時代初頭までにまでさかのぼるという話を見つけた。余り知られていないことかと思うのでご紹介。



相国寺の公式HPではこう紹介されている。
林光院は、足利三代将軍義満の第二子、四代将軍義持の弟義嗣(林光院殿亜相考山大居士)が、応永二十五年(1418)一月、二十五歳で早世され、その菩提を弔うため、夢窓国師を勧請開山として京都二条西ノ京、紀貫之の屋敷の旧地に開創されました。
(中略)
慶長五年(1600)関ヶ原の戦いのとき、島津義弘が両陣営の中央を突破し伊賀に隠れました。かつてより親交の厚かった大阪の豪商田辺屋今井道與が潜伏先に急行し、困難極まる逃避行を実行して、堺港より乗船させ、海路護送して無事薩摩に帰国させます。
この抜群の功により、薩摩藩秘伝の調薬方の伝授を許されました(現在の田辺製薬の始まりです)。後に道與高齢となり、薩摩まで義弘に会いに行けなくなると、義弘は自ら僧形の像を造り道與に与えます。道與は住吉神社内に松齢院を建築し、その像を祀ります。義弘没後は位牌も添えられますが、松齢院が後に疲弊したとき、道與の嫡孫乾崖梵竺が林光院五世住職となり、義弘の像と位牌が林光院に移され、島津家により遷座供養が修行されました。以降、薩摩藩との関係ができ、現在、林光院墓所に薩摩藩士の墓があり管理しているのはこれによります。
http://www.shokoku-ji.jp/img/sanpai_img/s/rinkoin.html
文中に出てくる「義弘僧形の像」って言うのはこれのコピーなのかしら。
さて、堺で島津義弘をかくまった商人・田辺道与は義弘マニアなら知ってなければモグリの人物だと思うが、あの田辺製薬(現「田辺三菱製薬」)の元になっているという話は初耳。社史でも記載されてないようなんだが…去年博物館ができたそうなので、そこに行ったら知っている人がいるかも?!

さて上記に記載されたように、この林光院は「紀貫之邸だったころから伝領している鶯宿梅」という梅の名木を持っていることで知られており、あの島津家久も参勤交代の時に訪れて一首ひねっていた
 うぐいすの春待宿の梅がえを おくるこころは花にぞ有哉
 (http://www.shokoku-ji.jp/h_siryou_ume.html)
念のために書いておくが、この島津家久は中書家久じゃなくて、忠恒の方である。残念(ヲイ)

ところで、この林光院だが非公開寺院_| ̄|○
まあ、養源院といい、相国寺は非公開寺院がほとんどなんだが…
検索中にこんなツアーを見つけたのだが、開催年をよく見ると、去年であった⊂(。Д。⊂⌒`つ

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今までの話は こちらこちら
かなり長くなりましたが、もう少しのおつきあい宜しくお願いします<(_ _)>

(頭注)
(1)『看羊録』はいろいろな本に所収されていますが、今回使うのは東洋文庫版になります。一番図書館に置いてあるのもこれかと。
(2)[ ]→翻訳を担当した朴鐘鳴氏による補注
(3)<>→著者の姜沆自身による補注
 私が倭京から出発する日、倭僧舜首座(注1)は大丘(注2)の虜われ人金景行なる者を[通訳として]招き寄せ、密かに、次のようなことを私に耳打ちしてくれました。
「きのう、筑前中納言金吾[小早川秀秋]に会ったのですが、その言うのに、『内府[家康]は、やがて明年には再挙して、朝鮮を犯そうとしている。もしそうであれば、私もまた[朝鮮に]行かねばなるまい』とのことでした。秀吉の生きていたとき、家康は極力兵を寝める(注3)ことを主張していたのですが、今このような議論があるのは、必ずやこれは、内府と肥前[前田利長]・備前[宇喜多秀家]らとが不仲なので、彼らを平[穏にその領]地に置いておけば、変事を起こしはしないか気がかりで、それで、この輩を朝鮮に送り込むことによって、その兵[の]勢[力]を消耗させようというのです。今年の内に、肥前との和事が成立しなければ、つまり根本が定まらないわけですから、朝鮮が心配することはありますまい。もし、[和事が]成立すれば、兵を動かすこと、疑いありません。[その場合、事は]きっと明年の間に起こりましょう。朝鮮は、そのために、予め備えなければなりますまい。あなたは、帰国されても、どうか今日の[私のこの]言を忘れないで欲しい物です。朝鮮の人は、何の罪もないのに、秀吉の兵火を被りました。私は、[それを考えると]ずっと気持ちが塞がらないことがなかったのです。だから、今告げ報らせるのです」
また、医師の理安(注4)が、[小早川]金吾[秀秋]の所からやってきて、言ったことがありました。
「明年、再挙[朝鮮に出兵]し、内府は長子の三河守[徳川信康](注5)を大将とするつもりだ、とのことです」
 私は、驚きと疑いを抑えられず、出発を数日間のばして、あちこちで聞きあわせてみたところ、ある者が次のように言いました。
「今年の正月中、内府は、五万石以上の倭の[大名の]子弟を人質として関東に送るよう求めました。諸倭はあるいは養子を送り、或いは実弟を送りましたが、ただ、清正や越中守[細川忠興]らだけには、実母か実子を[送るよう]求めました。(注6)
内府がまた、元日に、倭の皇帝(注7)に王京でお目見えしようとしたところ、清正らが、武装兵を領いて先に伏見に上り、それを出迎えようとしました。内府は、それを聞いて病気である、と言って上京しませんでした(注8)。和人はみな、内府は臆病だ、と笑いました。若州少将[木下]勝俊は、ちょうど秀吉の本妻[大政所(注9)ねね]に侍して王京にいたのですが、家康が今にもやってくると聞き、黄金40余錠(注10)を費やして、接待の準備をしました。[しかし、]病気だと言っているのを聞いて、大変失望した、とのことです。
清正らの欲しているのは朝鮮にあるのではないので、家康は、いまだかつて、この輩のことを一日たりとも忘れたことがなかったのです。
日本は、数百年来四分五裂し、関東が一国となり、奥州が一国となり、中国が一国となり、四国が一国となり、九州が一国となりました。[織田]信長が立つようになって、暫くの間[日本を]統合しましたが、その末年には、元に戻って、また分裂してしまいました。
秀吉が立ってから、またしばらく統合しましたが、今はその本人も死んでしまい、その[情]勢はまた分裂しそうです。もし、ふたたび分裂すれば、のちに必ずや秀吉のような者が更に生まれ、その後、朝鮮が再び兵渦を受けるでしょう。
しかし、世の中のことは、朝にかわり、夕にも変化するものか、あるいは、終始固定不変な物か、それは知ることができません。
家康は、広[い領]土と多数の民衆を擁し、両部の[有利な]形勢によって諸倭に号令しています。心服する者は少ないとしても、やむを得ず服従する者は多数です。[ですから、]しばらく敬遠して様子を見るのが、貴国としては得策です」
<[以上の言は、]嵯峨院の倭、与一(注11)の言葉であります>
[毛利]輝元の参謀僧、安国寺[恵瓊]は、常日頃その国政に与っています。その左右[にいる者]は、みなわが国の人たちで、国を思う心を忘れてはおりません。[それで、]通りがかりに、秘密裡に招いて問うてみたところ、
「数十年は、きっとその朝鮮を犯すという心配はありますまい。倭の輩はちょうど桟豆を争っていて(注12)、心配事と言えば簫しょう(注13)であります。何の暇があって他国の侵略に及びましょうか。云々」
とみながそう申しました。
「詣承政院啓辞」p.207-210
(注1)舜首座→藤原惺窩 この頃はまだ相国寺僧侶
(注2)大丘→大邱のこと
(注3)寝める→「やめる」と読む
(注4)理安→吉田意安(宗旬)の弟子。詳細未詳。
(注5)家康の長子三河守→もう何回も指摘したが,この当時徳川信康は既に故人。結城秀康と間違っているかとも考えたが、官名が違うし…。
(注6)子弟を人質~清正、越中守らだけには実母か実子を→細川忠興がこの時に三男・忠利を人質に出したため、忠利が後の家督継承で有利になったのは有名。加藤清正は人質出した記憶がない。えらい方のコメントお待ちしてます<(_ _)>
(注7)倭の皇帝→後陽成天皇 慶長5年の正月に後陽成天皇が家康に謁見したかどうかは管見では不明。
(注8)清正らが、武装兵を領いて~内府は~上京しませんでした→こういう話は寡聞にして聞いたことがない。史実はどうだったのか。これも詳しい方の御教示おまちしてます。
(注9)大政所ねね→ねねは政所なので、これは訳者の方のケアレスミスかと。ちなみにねねは木下勝俊の叔母になる。
(注10)錠→金を計る単位。時代によって形状も重さも変わるので簡単に現在の価値に換算できない。この辺の説明もご参照下さい。
(注11)与一→角倉素庵(了以)。先述(注4)理安の師匠・吉田意安は実弟。
(注12)桟豆を争っていて→『晋書』宣帝紀の「ど馬が桟豆に恋々とするように、使うに耐えない」と言う記述から来ている。つまり、「つまらない争いごとをして」という意味
(注13)簫墻→「しょうしょう」と読む。「墻」は「牆」の誤字。『論語』季氏編の「吾れ恐る、季孫の愁いはせんゆに在らずして簫牆の内にあらんことを」と言う文から来ている。つまり「内乱の恐れ」の意味。

こちらも前回同様かなり通説と違うというか、姜沆はガセネタつかまされた感が強いんですが(^^;)
上の文を見ると、どうもガセネタの元というのは小早川秀秋のように思われます。
(1)「舜首座」こと藤原惺窩が「今度は徳川家康が朝鮮に攻めようとしている」と言っているが、藤原惺窩の弟子の一人が小早川秀秋で、とりわけ上記の話は直接秀秋から聞いたことになっている。
(2)理安が(1)同様のことを言っているが、「小早川秀秋の所から来て」と明言されている
姜沆は『看羊録』を見る限り、小早川秀秋と直にあったことはないようなんですが、姜沆の情報源に小早川秀秋に縁のある人物が多く、秀秋ルートのガセネタが大量に流れ込んだ物と考えられます。
なお、秀秋が何でこんなガセネタの元になった理由は不明。多分戦略とか考えがあって流したわけではないと思います。秀秋の立場が微妙すぎてこんなガセネタしか持ってなかったのではないかとヾ(^^;)



おまけ

さて。姜沆が「打倒日本!」を掲げて命の危険を顧みず書いた「看羊録」なんです

約100年後、とんでもないことに…

1719年(享保4年)、徳川暴れん坊吉宗の就任を祝う朝鮮通信使で書記官を務めた申維翰。道中を「海游録」と言う日記に書いています。その頃の朝鮮では書籍が中々手に入りずらかったのか、途中で立ち寄った大坂で本の買い出しに精出していた(p.245)ようなのですが、申が本屋で見たものは
 朝鮮出兵の時に豊臣秀吉への通信使になった金誠一が書いた「海槎録」
 朝鮮出兵時の宰相だった柳成竜が書いた反省記「懲毖録
 そして今回のネタ「看羊録」
これらは朝鮮王朝の対日本重要資料としてどうもマル秘資料だったようなのですが、大坂の本屋で普通に販売されていたみたい(爆)。申は「賊を調査しながら賊にその調査内容教えてるのと一緒、国の規範が緩んで末端の役人がたるんでいるからこの有様だよ!。・゚・(つд∩) ・゚・ 。」(ばんない意訳)と嘆いています。

拍手[1回]

前回の続きになります。
では早速

(頭注)
(1)『看羊録』はいろいろな本に所収されていますが、今回使うのは東洋文庫版になります。一番図書館に置いてあるのもこれかと。
(2)[ ]→翻訳を担当した朴鐘鳴氏による補注
(3)<>→著者の姜沆自身による補注
己亥年(注1)正月12日、家康は、賊魁[秀吉]の遺命だと称して、秀頼を大坂に送り込ませ、自分は伏見に留まった。何か変事が起こりそうで、[人々は]しょっちゅうびくびくし、店舗も半分は店を閉じた。
 閏三月<倭の暦に閏三月がある。それで、閏三月[と書いておいたの]である>(注2)9日になって、清正らが武装兵を率いて伏見に上り、治部を攻めようとした。[毛利]輝元の参謀僧、安国寺[恵瓊]は、輝元に説いて言った。
「関白や摂政は、ただ一人のみであります。人臣で富んでいる者も、公を踰えることはありません。戦ってどうしようというのですか」と。
 輝元は、心の内に、これをもっともだと思い、遂に安国寺をやって家康を説得させたところ、家康もこれに同意した。
 長束大蔵[頭正家]は、治部の婚家であったので(注3)、やはり治部を説得し、家康のもとへ往かせて謝罪させた。輝元らが、遂に家康を押して盟主とし、伏見城に入居させた。
 治部は、首謀者であったので、自分の子を家康の人質にした(注4)。家康は治部をその領地に却けた。[福原]右馬助[長堯]は、[事の]張本人であったので、その土地を奪って、[早川]主馬頭[長政]等に返した。右馬助は、頭髪を剃って僧となり、名を緑雲と更え、山寺を建ててそこに住んだ。
 おおよそ、その気象が、[中国の昔の]春秋戦国の世にそっくりである。
<治部は礼部であり、少輔は員外郎である(注5)。>
清正なる者の性質は、もともとよこしまで、激しい。それで、家康に治部を攻めるよう勧め、それによって乱を起こそうとしたのである。家康と治部とが憾みを釈くに及ぶや、結局その禍心を逞しくすることができず、恐ろしい言辞をあれこれと吐きちらして、遂に家康に叛き、前田肥前守[利長]・備前中納言[宇喜多秀家]・[伊達]中将政宗・長岡越中守(細川忠興)・黒田甲斐守[長政]・浅野弾正父子(浅野長政・幸長)らと刺血(血判)同盟を結び、共に[力を合わせて]家康を討ち滅ぼし、その土地を分けようと約束した。
<その謀議に参加しなかったのは、ただ[毛利]輝元、[小早川]金吾[秀秋]らの5,6人だけであった。盟約はなったものの、「地醜く、徳斉し」(注6)といったような者ばかりで、統率する者がいないものだから、[前田]肥前守[利長]・[加藤]清正ら、大半が自分の領地に帰ってしまった。>
「賊中聞見録」p.170-171
(注1)己亥年→前回も書いたが慶長4年(1599年)
(注2)閏三月→日本は宣明暦(唐時代作成)を使っており、この時代にはずれが生じたためうるう月が存在した。が、朝鮮では大統暦(明時代作成)を使っていたのでうるう月という物はなかった。そのため、姜沆はわざわざ注記を入れて説明したのである。
(注3)長束正家は治部の婚家であった→長束正家は石田三成(治部少輔)と縁戚ではない。というか、今回長束正家の婚姻関係を調べて、初めて正家の正室があの本多忠勝の妹だったと言う事を知り驚き。
(注4)治部は~自分の子を家康の人質とした→関ヶ原合戦後僧侶となった長男・石田重家のことか。
(注5)礼部、員外郎→礼部は明時代の官僚制度の役所の一つ。詳しくはこちら(wikipedia)。ただ治部省の役務内容は礼部じゃなくて戸部に近いような気がする。員外郎は日本の律令制度では判官相当の役職。
(注6)「地醜く、徳斉し」→『孟子』公孫丑章句下にある文で、「領土の大きさも同じくらいで君主の徳も同じくらい」と言う意味があるという(p.173,訳者注)「どんぐりのせいくらべ」。

七将による石田三成襲撃事件の下り。何か流れが分かりにくいというか、通説とかなり違うというか。
姜沆はまともな情報を手に入れることができなかったんでしょうか。それともこの時は事態がかなり流動的だったのか。現在の通説では石田三成を庇ったのは宇喜多秀家や佐竹義宣(※ただし佐竹に関しては一次史料で確認できないらしい)と言うことですが、ここでは三成を庇ったのは毛利輝元+安国寺恵瓊という事になっています。
前回で紹介した文もそうでしたが、後半で「家康を襲撃する」と言われた武将グループ、関ヶ原の合戦ではほぼ全員が東軍(家康側)についてますね(苦笑)
それにしても、「よこしま」だとか相変わらず無茶苦茶言われている加藤清正。
己亥年9月9日、家康が大阪で秀頼に拝謁した。肥前[前田利長]の一党が、予じめこの事を知り、道ぞいに伏兵をしのばせておいて、これをむかえうとうとした。土肩(方)勘兵[衛雄久](注1)なる者が、自ら家康を刺そうと、請うた。石田治部は、すでに清正等と仲違いをしており、また、家康に媚びようという心積もりもあって、ひそかに書面で[このことを]家康に知らせた。家康はこの事を[浅野]弾正[長政]に問いただしたが、弾正は、きっぱりと、これを否認した。
<はじめ、秀吉の養子であった関白[豊臣秀次]が秀吉に殺された時、弾正は関白の党類として逮捕され、危うく死にかけたところを、家康の力添えのおかげで助かったことがあった。それで、家康は、弾正を腹心として待遇し、事が起こるに及ぶや、真っ先に弾正に問うたのであるが、弾正は、すでに[前田]肥前との盟約があったので、隠して話さなかったのである。>
次に、[増田右]衛門正(尉)[長盛]を問い正したところ
「私もやはりそのことを聞きました」
と答えた。<その他のことは肥前守の条(注2)にある。>家康は、大いに起こり、弾正を自決させようとした。
弾正は、
「秀頼[公]が年若い主君であれ、秀頼[公]が私に死を給うというのであれば、私はその命令に服従しよう。[しかし、]内府[徳川家康]が大班(注3)であっても、内府が私に死を給うと言うことには従えない。」
と言った。結局、家康は、弾正を追放し、その食邑の甲斐州に帰らせた。
 家康はまた、秀吉の遺命をたてに、秀頼の母[淀殿]を室にしようとした。秀頼の母は、既に大野修理[亮治長]と通じて妊娠していたので、拒絶して従わなかった。家康は、ますます怒り、修理を執えて関東に流し、さらに途中で死を与えた。土肩(方)勘兵[衛]も執え、やはり関東に流した。
 [家康は、]関東の諸将に武装兵を率いさせて肥前が上って来る路を守らせ、自分自身は大阪にいて不安と疑惑を鎮めた。
<その長子三河守[徳川信康]と少子壱岐守[頼房]に伏見城中の留守をまかせ、中子江戸中納言[秀忠]には関東の根本を守らせた(注4)。>
[そして家康は、]郡[の自領]に帰っている諸倭将を急いで召集し、その去就を観た。家康に附こうとする者は媚びへつらおうとし、家康にさからう者は自ら[事態を]明らかにしようとして、一時に道を進んできた。ただ、清正だけは、命令を聞いても[自領に]そのまま留まり、三ヶ月が過ぎてから上京してきた。越中守[細川忠興]は、丹後の私城(注5)を修繕し、
「ここを守れば充分である。何をわざわざ内府のためを計る必要があろうか」
と言った。
 この時にこそ、[毛利]輝元が、もし一歩でも動いていたならば、勝敗は立ちどころに決していたであろう。しかし、二酋[の家康と輝元]がすでに和睦していたので、諸倭は殊更な動きを見せなかった。
 そして、[家康は、]備前中納言[宇喜多秀家]と筑前中納言[小早川秀秋]とを、伏見に駐留させようとしたが、備前は拒否し、
「[亡くなられた]太閤には、肥前守と私の二人で共に秀頼[公]を戴き大阪を守れ、と遺言された。そのお声がまだ耳に残っております。どうしても命令は聞けませぬ」
といった。[しかし、]家康が[彼の主張を]堅く拒んで聞かなかったので、秀家はやむを得ず伏見に移駐した。
<はじめ秀吉は、諸倭に屋敷を王京・伏見・大阪の三カ所に与え、[彼ら]自ら往来するようにさせ、そこに住まわせた。家康が大坂に居るようになるに及んで、諸倭は一時に[自分の領地に]下って去ってしまったので、伏見は空っぽになってしまった。>
「賊中聞見録」p.172-173
(注1)土肩勘兵衛雄久→土方雄久 関ヶ原の合戦時は東軍(本戦には参加せず)。
(注2)肥前守の条→この記事参照
(注3)大班→大大名のこと
(注4)長子三河守と少子壱岐守→この姜沆の認識違いについての指摘は拙ブログのこの記事を参照
(注5)丹後の私城→恐らく宮津城のことか

関ヶ原の合戦前に徳川家康派とみられていた浅野長政が蟄居させられたり、大野治長・土方雄久が関東に流罪になるという奇怪な事件が相次ぎますが、それに関する記述です。
ここもまた通説とはかなり違う記述が多いです。
この文で注目されるのは、毛利輝元に関する記述(この時にこそ、[毛利]輝元が、もし一歩でも動いていたならば~)でしょう。「輝元は鈍長な性格」というイメージがありますが、同時代人もそうだったことがうかがえます。


今回はここまで。
後もう一回だけ続きます。

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今までの話はこちら 



前回予告したとおり、朝鮮出兵で不幸にして捕虜になった朝鮮王朝の官僚・姜沆による上申書+回想録「看羊録」で記述された、関ヶ原合戦勃発直前の、日本国内の不穏な空気が感じられる文をピックアップ。
なお、姜沆は友人の「舜首座」こと藤原惺窩や慶安(切支丹の医者らしい)が姜沆の捕縛者・藤堂高虎を説得したことで釈放され、1600年5月19日に帰国しています。つまり、1600年9月15日に勃発した関ヶ原の合戦はじかで見聞きしてない…遠慮せずにもうちょっと日本にいれば良かったのに~(をい)

ではまいる。
(頭注)
(1)『看羊録』はいろいろな本に所収されていますが、今回使うのは東洋文庫版になります。一番図書館に置いてあるのもこれかと。
(2)[ ]→翻訳を担当した朴鐘鳴氏による補注
(3)<>→著者の姜沆自身による補注
賊魁(注1)には子がなかったので、妹の子(注2)を自分の養子にした。賊魁が、大閤と自称するに及んで、その養子を関白にし、伊勢・尾張などの州を分って領土としてやった(注3)。
壬辰年(注4)の冬になって、秀吉の愛妾(注5)が秀頼という男子を産んだ。<ある者の言うには、大野修理大夫[治長]なる者が、秀吉の寵を得て、つね日ごろから寝室に出入りし、秀吉の愛妾と密かに通じて生んだのだ、と>秀頼が生まれてからというもの、関白は、自然と心に疑いや懼れが生じ、暗に翻意を抱いた。石田治部[少輔三成]は、彼に従いながら、これを陥れた。秀吉は、関白を自決させようとしたが、関白は紀伊州高野山に逃れ、剃髪して僧となった。秀吉は、直ちに、その所在[地の高野山]で、またこれに死を賜った。
<倭の法では、死罪にあたる者でも、領土を捨てて僧侶になれば、通例として不問に付すのであるが、秀吉だけは、関白を殺してやっと満足したという。>
関白の屋敷も包囲し、その部下を一人残らず殺してしまった。その屋敷は没収して、加賀大納言(注6)に与えた。
[こうして]内憂は解決したものの、わが国侵略の軍[事行動に]は何ら成果がなかった。家康等は、再挙[侵略するの]は失計である、と言い、石田治部は、つねづね
「66州で充分である。どうしてわざわざ、異国で切羽詰まった兵を用いなくてはならないのか」
と言っていた。ただ、[加藤]清正だけは、再挙するのがよい、と主張した
「賊中聞見録」p.160
(注1)賊魁→以前から何回も出て来ているが、豊臣秀吉のことである
(注2)妹の子→豊臣秀次。ただし秀次の母は秀吉の姉(とも)なので、「姉の子」というのが正しい。
(注3)伊勢・尾張などの~→秀次が伊勢・尾張を領地としたのは小田原の役の後らしい(wikipediaデータなので余り当てにしないようにヾ(--;))
(注4)壬辰年→秀頼が生まれた文禄3年(1593年)は癸巳なので1年前と間違えている
(注5)秀吉の愛妾→ご存じ淀殿のことである
(注6)加賀大納言→前田利家 ところで秀次の居所・聚楽第は徹底的に破却されたのだが、その跡地はその後どうなってたんでしょうか。姜沆情報のように前田利家の土地になったのかしら?詳しい方のご意見お待ちしております<(_ _)>

秀次一族殺害事件に関する下り。「秀頼は実は秀吉の子じゃない」説とか、石田三成が秀次失脚の黒幕だったとか、なかなか興味深い話が続出します。
また後半では朝鮮出兵に関する諸大名の意見が書かれているのですが、徳川家康、石田三成等が反対派だったのに対し、加藤清正がイケイケゴーゴーというのが通説通りで、いかにも何とも(^^;)
[秀吉は]戊戌年(注1)3月晦日から病気にかかり、自分でもきっと死ぬだろうと悟って、諸将を召し寄せて後事を託した。家康には、秀頼の母[淀殿]を室として政治を後見し、[秀頼の]成人を待って後政権を返すようにさせた。加賀大納言[前田利家]の子肥前守[前田利長]には、秀頼の乳父(注2)となって、備前中納言[宇喜多]秀家と共に、終始秀頼を奉じて大坂にいるようにさせた。
<また、[秀吉は、]他人の娘を大勢養って自分の娘とし、少しでも権力のある者はみな、[養女と]婚礼させることで籠絡した。また、金銀や土地を重賞として与え、後々までその恩を[売って]留めておくことによって、後々の野望を[抱くのを]断った。家康の子、江戸中納言[徳川秀忠]の娘[千姫]を秀頼の妻にした。
大坂は、西京で、摂津州にあり、伏見は、東京で、山城州にある>
大坂の形勢は、伏見に比べて、より優れている。それで、家康には東の諸将を率いて大坂に居らせ、そうすることで、西の諸将の謀反を計ろうとする者を制御させ、輝元には、西の諸将を率いて伏見に居らせ、そうすることで、東の諸将の事を起こそうとする者に備えさせた。そして、命じて、大坂の諸店舗を取り払わせ、大々的に城池を修理した。
「賊中聞見録」p.163-164
(注1)戊戌年→慶長3年(1598年)
(注2)乳父→いわゆる養育係。この場合は「後見人」という意味合いの方が強いかも。なお、平安末期~鎌倉時代には「乳父」はよく出てくるのだが、安土桃山時代に出てくるのは珍しいように思う。ちなみに「乳父」も「めのと」と読む(参考「乳母・乳父考」(西村汎子『白梅短期大学紀要』31)

秀吉が死ぬ前後の状況を書いた部分。ここも他の史料では見られない興味深い話が出て来ます。「諸将に後事を託した」のは他の史料も一致しているのですが、「徳川家康には淀殿を後妻にするようにした」とか「前田利長(※利家じゃない)を豊臣秀頼の乳父にした」とか言う話は見たことがないです。
あと「家康には東の諸将を率いて大坂に居らせ(中略)輝元には、西の諸将を率いて伏見に居らせ」と言う箇所ですが、ここは実際とは違いますね。史実では家康が伏見にいたのでした。
ところで秀吉が多くの養子女を持っていたのは事実なんだが、養女を有力者と結婚させる政策は余り有効に生かしてないような気がするのだが。むしろ養女の結婚を有効に使ったのは家康のほうかと。
戊戌年(注1)12月15日過ぎ、[加藤]清正と[黒田]甲斐守[長政]とが、先ず倭京に到着した。[小西]行長と[島津]義弘とは、12月の末に、追って倭京に着いた。
<清正が、先に戻って、行長の怯懦をあざ笑った。行長は、もどって来るや、また、
「清正は、朝鮮の王子を待たずに、陣営を焼き払ってあわてて退却(注2)し、和議そのものを、ほとんど成立させる寸前にぶちこわした。私と島津とは、唐の質官を連れ(注3)、落ち着いて殿を務めながら、後から戻ったのだ。私が怯懦か、清正が怯懦か」
と宣言した。[毛利]輝元等は、和議不成立の咎を清正のせいにし、清正は清正で、やはり行長がわが国[との交渉]に二心を持っている、と咎めた。議論はもつれにもつれ、反目はますます深まった。>
 石田治部少輔[三成]は、賊魁の大層な寵臣である。食邑は近江州にあって、その肥沃なことは倭国でもぬきんでている。
 [彼は、]増田[右]衛門正(尉)[長盛]・浅野弾正[長政]、徳善院[前田]玄以・長束大蔵頭[正家]らと共に五奉行となり、専ら国論を左右している。
 丁酉の役([慶長の役])から還って来た福原右馬助[長堯]なる者が、治部(石田三成)を通じて、[諸部隊が]留まったまま進軍しなかった、と[秀吉に]諸将を尽く訴えた。[蜂須賀]阿波守[家政]・[黒田]甲斐守[長政]・[藤堂]佐渡守[高虎]・[加藤]清正、[早川]主馬頭長政(注4)、竹中源介[重隆](注5)らが、みな譴責された。賊魁は、[早川]主馬頭[長政]や[竹中]源介[重隆]らの、豊後六万石の領地を奪って、[福原]右馬頭[長堯]への賞とした。
清正らが、全部撤[退、帰]還するに及ぶや、賊魁はすでに死んでしまっていたものだから、どうあっても右馬助を殺してしまうのだ、と身がまえたのであった。[石田]治部らの一党もまた右馬助を援助したので、党派がいよいよもって分裂した。
<家康は、清正・長岡越中守(注6)・福島大夫[正則]・[黒田]甲斐守[長政]・[蜂須賀]阿波守[家政]・[藤堂]佐渡守[高虎]・浅野弾正父子(注7)らと一党を形成し、[これに追随する]小大名に到っては、数え切れないほどであった。
[毛利]輝元は、備前中納言[宇喜多秀家]・筑前中納言[小早川秀秋]、石田治部[少輔三成]・増田[右]衛門正(尉)[長盛]・常州の佐竹[義宣]、奥州の[伊達]政宗と最上[義光]、出羽の[上杉]景勝、それに長束大蔵[頭正家]・島津義弘・[小西]行長らと一党を形成し、これに附く者がどんどん増えた。
[それらが、]朝晩に集まって謀議をこらすのが、まるでもう鬼いき(注8)のようであった。>
「賊中聞見録」p.167-169
(注1)戊戌年→慶長3年(1598年)
(注2)朝鮮の王子を待たずに~→慶長2年(1592年)の和議の条件の一つに朝鮮王子(臨海君李珒順和君李<王土>)を日本に人質に送る、という物があった。その王子の来日を待たずに清正が勝手に引き揚げたので和議が不調になったと小西行長がなじったのではないか、というのが訳者の朴鐘鳴氏の解説(p.169)
(注3)唐の質官→慶長3年(1593年)10月の和議交渉の時に人質となった明の茅国科と王建功のこと。
(注4)[早川]主馬頭長政→早川長政。福原長堯の讒言により領地没収されたのは史実のようだが、その後の関ヶ原の合戦でなんと西軍に付いてしまったというのは興味深い
(注5)竹中源介[重隆]→竹中重利。竹中半兵衛の親族というのは有名かと。福原長堯の讒言にあった一人であるのは確かだが、先述の早川長政と違って蟄居の憂き目には遭っていない。
(注6)長岡越中守→ご存じ細川忠興のことである この頃はまだ「長岡」姓だったらしい
(注7)浅野父子→浅野長政、幸長のこと
(注8)鬼いき→「いき」は「虫」偏に「或」と書く(unicode U+872E)。「鬼いき(きいき)」とは鬼やいさご虫のように陰険、という意味。

いわゆる武断派vs文治派の派閥対立を作ったと言われる、福原長堯讒言事件を書いている興味深い個所。
福原長堯は石田三成の親族であったために、いわゆる武断派武将が三成を恨む原因になったのは事実と思われます(実際、福原は関ヶ原の合戦で西軍に付き、敗戦後出家して伊勢朝熊山に籠もり恭順の姿勢を見せたにも関わらず殺害されています。)。
ただ、末尾の武将一覧はいただけないです(^^;)伊達政宗と最上義光がどうしたら西軍になるのだ。それともやっぱりこの時は時勢が流動的で政宗と義光はそういう振りをしたのだろうか。



実はまだ気になる箇所があるのですが、それを書くとかなり長くなるので項を変えて続けます。

拍手[2回]

前回の話はこちら



今回は何故か単独項目で言及してもらえなかったかわいそうな?武将達の記述について、気になるものをご紹介。
まあ、姜沆の置かれた状況が状況なんで、大概の武将はこき下ろされまくりなんですが、とりわけ、宗義智+小西行長に関する悪口はすさまじいです(^^;)
ではまいる

(頭注)
(1)『看羊録』はいろいろな本に所収されていますが、今回使うのは東洋文庫版です。
(2)[ ]→翻訳を担当した朴鐘鳴氏による補注
(3)<>→著者の姜沆自身による補注
私が俘われて倭国に連行されてから、倭僧に細かく聞いたところによりますと、平時のいわゆる倭の使者なる者はみな[対]馬当主が送ってきた私人であり、いわゆる倭の国書なる物はみな[対]馬島主が書いてよこした偽書であって、ただ群倭があずかり知らないばかりでなく、壱岐、肥前の将倭らもよく知らない、と言う事であります。
(中略)
交戦のきっかけは、ことごとく[宗]義智の謀からでたものであります。[小西]摂津守行長は義智の妻の父であります(注1)。義智は、自分から直接賊魁に通じることができず、行長を通じてわが国の虚実を細かく[秀吉に]報告し、[行長は]自らそのことに任じたのであります。こうして戦いがうち続き、災いは連なって、物故[する者]も増大し、倭人といえどもその怨みが骨に徹し、
「摂津守が実にこの事態を引き起こしたのだ」
と言い、[加藤]清正のような荒々しい者でさえも、
「朝鮮との戦いのきっかけを開いたのは、摂津守その人である」
と言ったのであります。
行長は、わが国での事[態]の結末が無期[限につきそうにもない]と見てとりはしたものの、朝にして撤[退帰]還すればわが国が義智を声討し、しかも相互間の貿易も許さないだろう事を恐れ、それで熱心に和解に努力したのであり、実に義智の立場を考え[てそうし]ただけであります。
「賊中封琉」p.55~56
(注1)宗義智の妻の父:この文章にあるとおり、宗義智の妻・マリアの父が小西行長になる。後の関ヶ原の合戦で小西行長が処刑されたことにより離婚、後長崎で死去したと言われるが、詳細は未詳。
姜沆的には「この朝鮮出兵の影の首謀者は宗義智と小西行長!!!」…らしい。いや、やっぱり首謀者は「賊魁」こと豊臣秀吉その人なんですが、こじれる原因を作ったのは宗と小西であることは間違いないと私は考えます。
脱線ネタだが、この辺のまずすぎる外交交渉を見ると、第2次世界大戦の時の日本とオーバーラップして仕方ない私である。
行長と清正とは元々仲違いしていたのですが、壬辰年の戦いを起こして以来というものは、いさかいがいよいよ深くなり、賊魁[秀吉]が意を尽くして仲直りさせようとしても、どうにもその憾みを釈かせることができませんでした。清正は行長に出くわすと、通例として、実に粗暴に接するのですが、行長[の方]は、外面的には温和[な見せかけ]を示してこれに応対します。
「賊中封琉」p.65
キタ━━━━━(゚∀゚)━━━━━!!!小西行長vs加藤清正(爆)
なおこの文の後に、「加藤清正と小西行長がこんなに仲悪かったのに、わが国はスパイを使ったりしてこの反目を利用することができなかった、無策だった…」(ばんないまとめ)というような内容が続きます。
[宗]対馬守義智がもともとわが国との戦いのきっかけを仕組み、賊魁は博多の2万石の土地をその功[績]の賞(注1)としました。その前には、ただ対馬を食[邑と]していただけでした。
大体、倭では、壱岐・対馬を外国同様に見て、66州の列に入れません。
己亥年(注2)3月、群倭は、明兵とわが軍が[対]馬島を声討すると聞いて、流言がかまびすしく、街路ではその噂で持ちきりでした。しかし、[誰も対馬を]救おうと思う者はなく、義智も、倭京に身を隠していたのですが、捨て置いたままこれをどうにもできずにおりました。(中略)
甲午年(注3)の、いわゆる倭の使者、小西飛騨守(注4)もやはり小西行長が送り込んだ者で、賊魁の送り込んだ人間ではありません。<小西は姓、飛騨は州名で、それを官号としたもので、行長の従弟であります。行長の姓も小西です>
「賊中封琉」p.83
(注1)博多の2万石の土地:薩州家島津忠辰の改易後に出水を領していたことがある。また、江戸時代には肥前国に飛び地を持っていた。
(注2)己亥年:慶長4年(1599年)
(注3)甲午年:文禄3年(1594年)
(注4)小西飛騨守:内藤如安
以前少しだけ触れましたが、「大体、倭では、壱岐・対馬を外国同様に見て、66州の列に入れません。」ちうところに、姜沆の対馬/壱岐認識が垣間見えます。
次に紹介する文も、姜沆の対馬認識をよくあらわしている箇所かと 今回の記事の本題とは外れるのですが興味深いので抜粋。
(対馬は)平時には、ただわが国の関市に通って、それで生活を維持してきた。(中略)
その女子は多く[の場合]、わが国の衣装[を着ているの]であり、男子はほとんどがわが国の言語を理解している。
倭国を言うのに必ず日本と言い、わが国を言うのに必ず朝鮮という。[彼らは]いまだかつて日本だと自らを処したようなことはまずない。平時にあってはわが国から利益を蒙ること多く、日本からは少ない。それで、将倭から卒倭に到るまで、わが国を戴く心が、日本に附くよりも強い。
「賊中聞見録」p.130~131
ところがこの文の直後にこう続く
[豊臣]秀吉が66州を併呑するに及ぶや、[宗]義智は、罪[を得ること]を恐れ、遂にわが国を売って秀吉に媚び、その先鋒となったのである。秀吉は、筑前の博多の地を割いてその功を賞し、[それで対]馬島の将倭は、始めて粒食することができたのであった。以前は、ただわが国から賜う米を食べるだけであった。
しかし、[義智は]倭京にあってもまだ家屋敷を持てず、その妻の父行長の家の近くにある市[中の酒]楼を選んでしばらくの間賃[銀を払って宿]泊したのであるが、斥けられて、他の将倭らの例にもあずかれなかった、という。
大方の本土の倭は誠にあくどいが、非常に悪がしこいと言うほどではない。(中略)
対馬の倭は、あくどいと言うほどではないが、巧[妙な]詐[術]は百出する[ほど悪がしこい]。(中略)
わが国と間隙のない時は、専ら内附[してわが国につくこと]を意図し、倭奴が強盛である時は、わが国を裏切って嚮導[役]を買って出る。その悪賢い謀略や詐計はなみなみならぬものがある。辺将の撫[恤・制]御がもし適切でなかったなら、必ずやまた、この者どもにだまされるであろう。
「賊中聞見録」p.131-132
この文を見ると、姜沆には「子分の対馬に騙された」感が強かったようです(爆)
なおこの文の後には姜沆が考えた長文の対対馬対策が書いてあるのですが、そのなかに「今後は対馬から人が来ても釜山止まりにし、滞在場所も隔離して朝鮮人と交流できないようにするのが良い」という内容の文言があります。江戸時代の朝鮮王朝の対日本政策はまさしくこれそのものですが、姜沆の進言が取り入れられたものかどうかは不明です。

小西行長と宗義智の悪口もいささか読み飽きてきたので、ちょっと空気を変えてみる
<別所小三郎(注1)という者がいて、播磨・因幡に拠って叛いた。信長は、[人を]往かせて、殺させようとした。秀吉が、自分が往って論そうと願い出、信長はそれを許した。秀吉は、手ずから親兵100人ばかりを率いていったが、到着すると、これらの兵士を城外に留めておいて
「そち達を煩わせるまでもない。自分一人で入ろう」
と言った。その部下が泣きながら、
「単騎で入城されればどのようなことが起こるやも知れません。どうか、お供をして生死を共にすることをお許し下さい」
と願った。秀吉は、笑いながら、
「もし勝負を比べるならば、100人ばかりの兵卒は、飢えた虎に肉を投げ与えるのとどれほど違おうか。もし勝負を度外視するのであれば、身を挺して一人はいったところで何ら心配することはあるまい。」
と言った。そして、単騎で、刀や槍も外し、商人に身をやつして城門に入った。門番も禁じなかった。
[秀吉は]そのまままっすぐ別所の帳の前に行き、前に進んで、別所の手を取っていった。
「主[である信長]公はそなたを厚遇しているのに、そなたは何が気に染まぬと言って叛くのか。今、計としては、甲を脱ぎ、武器を捨て、[我が身をゆわえるように]束身して謝罪するにこしたことはない。そうすれば、うけあって、富貴も失わずにすむであろう」と。
別所は、
「仲違いがもう深くなって、どうしようもありません」
と言った。別所の部下は、秀吉を殺そうと望んだが、別所は、
「彼は私のために計ってくれているのである。どうして殺せよう」
と言い、秀吉を護送して城門から出させた。秀吉の部下は、秀吉がもう死んでしまったと思っていたので、[彼が]門から出て来たときには、驚きながらも歓び迎えないものはなかった。[事のいきさつを]信長に返報したところ、信長は遂に秀吉に命じて別所を攻撃させた。別所の兵は敗北して西路に逃走した。>
「賊中聞見録」p.149-150
「干殺し」で有名な三木合戦と別所長治と秀吉の話。
“賊魁”秀吉なのに何故かいいエピソードが書かれたのは、後述する藤原惺窩との絡みがあると思われます(別所長治は惺窩の父・兄の敵に当たる)。なお、実際は姜沆が書いた話と違い、別所一族は女子供も含めて自殺に追い込まれたのは有名な話。
家康・輝元・[上杉]景勝・佐竹[義宣]・[伊達]政宗・最上[義光]・[島津]義弘・竜蔵寺・生田[三左衛門](注1)・崛尾[吉晴](注2)・崛里(注3)・筒井[定次]・真田[昌幸]・土佐の[長宗我部]盛親・讃岐の[生駒]雅楽[頭親正]らの領地はすべて世襲で、家来もみな代々の家臣である。
主将が戦いに敗れて自決すれば、その部下もみな進んで自決する。(中略)
その他の諸倭は、みな雇われ者か、下賎の身であったが、秀吉を頼って立身し、膂力や勇敢さで自ら富貴の身となったのである。土地はすべて新たに得た物であり、家来もすべて烏合の衆である。領地の大きさが宇喜多秀家や小早川金吾秀秋ほどあり、勇敢さが清正や長岡[越中守細川忠興]のようであっても、主将が戦いに敗れて自決すれば、その家来は、あるいはちりじりになり、あるいは降伏する、と言う。
「賊中聞見録」p.176
(注1)生田:池田輝政
(注2)崛尾:堀尾吉晴
(注3)崛里:堀秀政 ただし姜沆が日本に来たころにはとっくに故人。

実は「葉隠」じゃない戦国時代の日本の武士
これらの話、姜沆が実際に見たわけではなく上方僧侶の話の聞き売りだと思うんですが、由来の古い大名の家来は忠義心が強く、秀吉子飼いの大名は結構ドライというのは興味深い内容です。…まあ、姜沆分類による「由来の古い大名」の中に実は「秀吉子飼い」が混じっているように見えるんですが(^^;)
私は倭京に連れて来られてからと言うもの、倭国の内情を知ろうと思って、時々倭僧と接した。その中には文字(注1)を知り、物の理も知っている者がなくもなかった。
医師で、意安・理安(注2)という者がいて、しばしばやってきては琅とう(注3)中で私と会った。
また、妙寿院の僧・舜首座(注4)なる者がいる。京極黄門[藤原]定家の孫で、但馬守赤松左兵衛広通の師である。[彼は、]大変聡明で、古文をよく解し、書についても通じていない物がない。性格も剛峭で、倭では受け入れられるところがない。内府家康が、その才賢を聞き、家を倭京に築いて、年に米2000石を給した。舜首座は、その家を捨てて住まわず、扶持も辞退して受けず、ただ若州少将[木下]勝俊、[赤松]左兵衛広通と交友した。
<広通は、その国の桓武天皇の9世の孫である。六経に非常に打ち込み、風雨の日も、馬上でも、本を手から話したことがなかったが、その性質が鈍魯で、かな訳がなければ一行も読めなかった、と言う事である。>
「賊中聞見録」p.181
(注1)文字:いわゆる「漢文」もっと詳しく言うと「漢文をネイティブ中国人並みに使える」ことが「文字を知っている」事になる。ひらがな・ハングルは姜沆的には文字じゃない別の物体らしい。
(注2)意安・理安:意安は吉田宗恂(1558~1610年)、理安は宗恂の弟子という以外は未詳
(注3)とう:「王」偏に「當」。「琅とう」は牢屋のこと。実際は軟禁状態で、時々外を出歩いたりアルバイトもしたりしていた。
(注4)舜首座(しゅんしゅそ):ご存じ藤原惺窩。この当時はまだ相国寺妙寿院の禅僧で、舜首座の役を務めておりこのように呼ばれたようだ。
また(舜首座は)次のようにも言った。
「日本の将官は、すべてこれ盗賊であるが、ただ、[赤松]広通だけは、人間らしい心を持っています。日本にはもともと喪礼がありませんが、広通のみは三年の喪を行い、唐の制度や朝鮮の礼を厚く好み、衣服や飲食などの些細なところまで、必ず唐と朝鮮に見習おうとしています。日本にいるのではありますが、日本人ではない[と思えるほどな]のです」
[そして、]とうとう私のことを広通に話した。広通は、時々私の元へやってきて話を交わしたが、自分は[加藤]清正や[藤堂]佐渡[守高虎]らと仲違いをしているので、[互いに知りあっていることを]決して佐渡の家に知られてはいけないのだ、と言う事であった。
又、ある時は、わが国の士分の俘虜や私の兄弟に、六経の大文を書いて欲しいと頼み、[その対価として]密かに銀銭で私たちの覊旅の費用を補い、帰国時の準備にあててくれた。
<また、ある時、わが国の『五例儀書』と『郡学釈業儀目』を入手し、但馬の寺領に孔子廟を[自ら監]督[して設]立した。また、わが国の祭服、祭冠を[まねて]制定し、しばしばその家臣を率いて祭儀を習ったりした。>
「賊中聞見録」p.182-183
赤松広通と言ってもかなりの戦国マニアじゃないとピンと来ない人が多いかと思いますが、あの天空の城竹田城の最後の城主といったら通じるかな。7,8年前に偶然に墓参りしたことがあります。台風23号で近隣の山が土砂崩れした2年後ぐらいのことで、広通の墓以外更地になっていたのが印象的でした。上の竹田城はその時は無事だったんですが、10年後突如の天空の城ブームで人災により石垣が崩壊(苦笑)
赤松広通が加藤清正、藤堂高虎と仲が悪かったというのは「看羊録」ぐらいにしか記述がなかったかも。広通が関ヶ原の合戦で西軍に付いてしまった理由の一つかも知れないです。
赤松広通が好意的評価されてるのは儒学に熱心というばかりではなく、藤原惺窩の友人と言うことや帰国援助をしてもらったことで評価がアップしている可能性が高いかと思います。藤原惺窩が赤松広通と親しかったのは、藤原惺窩の親の領地との関連でしょうかね。藤原惺窩の父親の領地とその悲劇的な死については渡辺大門氏の『逃げる公家、媚びる公家―戦国時代の貧しい貴族たち』に詳しいです。
なお、引用で省略した辺りにあの有名な「藤原惺窩の売国発言?」があるんですが、ネットで見た限りじゃ実際の文を紹介した物がない様なんで、ついでに書いてみる。
舜首座が、かつて次のようなことを言った。
「日本の民衆の憔悴が、今ほどひどい時代はいまだありませんでした。朝鮮がもし、唐兵と共に[日本を]吊民伐罪しようとするならば、まず降伏した倭と通訳にかな書きの布告文を掲げさせ、民衆を水火の苦しみから救おうとしているのだという意思を詳しく知らしめ、軍隊が通過する地域にいささかの被害も与えなければ、白河の関まででも十分行くことができましょう。倭人が朝鮮の人や物を殺略したように、もし[朝鮮が]ここ[日本]で同じ行為をするならば、対馬ですら通過できますまい」
「賊中聞見録」p.182
最後はこれ。儒学者には日本のサブカル…というか「いい仕事してますね~」は理解できなかったらしいヾ(^^;)
倭[の風]俗では、あらゆる事柄や技術について、必ずある人を表立てて天下一とします。ひとたび天下一の手を経れば、[それが]甚だしく粗悪で、甚だしくつまらない物であっても必ず沢山の金銀でこれを高く買い入れ
(中略)
木を縛り、壁を塗り、屋根を葺くなどと言う、つまらない技にさえみな天下一があり(中略)
堀田織部なる者がいて、ことごとに天下一を称しております。花や竹を植え付けたり、茶室をしつらえたりすれば、必ず黄金百錠を支払って[彼に]一度鑑定を求めます。炭を盛る破れ瓢、水汲み用の木桶でも、もし織部が誉めたとなれば、もうその値は論じるところではありません。
[このような]習俗がすでに成立してしまっているので、識者が時にはあざ笑ってみても、禁止することはできなくなっています。織部の家の富は、[それ故]家康[の富]になぞらえられるほどです。
「詣承政院啓辞」p.217
堀田織部=古田”へうげもの”織部
鑑定業でかなり荒稼ぎしていたみたいですね。あやかりたい人は多いかも(でもへうげものは最期が悲惨)



「看羊録」の入力もかなり疲れてきたのですがヾ(--;)
関ヶ原合戦直前の情勢についての内容がなかなか興味深いので、もう1回だけ続きます。

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