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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
世間では高視聴率らしいですが。

史実とは当然かけ離れ
宮尾登美子の原作も破壊しまくり
歴史マニアとしてはいいところ無しの
暴走中の大河『篤姫』。
しかし、こういう新発見?がありましたのでそれなりの効用はあった んでしょうかねぇ
篤姫付老女「幾島」 薩摩藩士の娘、63歳で死去 鹿児島市の招魂墓に記録
(2008 05/15 07:42)

篤姫(天璋院)が島津家から13代将軍徳川家定に嫁いだ際、篤姫付の老女として江戸城大奥に入った「幾島(いくしま)」の招魂墓が、鹿児島市唐湊2丁目の 唐湊墓地に残っていることが14日までに分かった。不明だった出自や生没年などが碑文に記され、尚古集成館の寺尾美保学芸員は「基礎情報がそろうことで、 幾島の実像に迫ることができる」と話している。
墓石は六角柱で、台座を含めた高さは約1.2メートル。正面に「朝倉氏幾島君招魂墓」とあり、幾島の事跡などが別の面に刻まれている。碑文によると、幾島 は1808(文化5)年6月18日、薩摩藩士の娘として生まれた。70(明治3)年4月26日、63歳で東京で没し、島津家の菩提寺大円寺(東京都)に葬 られた。父は薩摩藩で御側用人(おそばようにん)を務めた「朝倉景矩(孫十郎)」、母は秋田藩家臣「阿比留軍吾」の娘「民」。13歳の時に、島津家から京 都の公家近衛家に嫁いだ郁(いく)姫の女中となった。
招魂墓は朝倉家先祖代々の墓などと共に建つ。墓碑を調査している鹿児島大学職員友野春久さん(56)=同市=が3年前に碑文を記録。資料整理し、幾島の招魂墓に気付いた。幕末の絵図では、現在の同市長田町の屋敷に朝倉家の名がみられる。
同家の子孫、朝倉康光さん(59)=宮崎市=は「祖父の代に鹿児島から宮崎に移った。(幾島の)墓の存在は知っていたが調査はしていなかった。みなさんに広く見てほしい」と話している。
http://www.373news.com/modules/pickup/index.php?storyid=10654

『翔ぶが如く』では樹木希林の快演(怪演?)で強烈な印象を残し
『篤姫』では篤姫を特訓する鬼軍曹ヾ(^^;)…のはずが単なるギャグ要員におとしめられている印象がありますが、
史実では大奥で孤軍奮闘する篤姫を支援した重要人物(だから『翔ぶが如く』のイメージに近い)であったにもかかわらず、どうも病気で明治維新になる前に篤姫の元を去り、以後消息不明となっていたため、生没年はおろか実名も実家の苗字も未詳という謎だらけの人物だったわけです。

どうもお墓の持ち主はこの事実を知っていながら、わざと(めんどくさかったから?)公に公表されなかったような印象を記事から受けますが、これがきっかけとなって謎だらけの幾島の残りの半生にスポットが当たれば非常にいいことではないかと思います。

ちなみに本墓は東京の大円寺(島津家の江戸での菩提寺)にあるという記述から見ると、篤姫の元を辞してからも島津家の世話となって江戸暮らしであったのではと推測されます。またこの本墓は今は消滅した可能性が高いと思われます(その根拠についてはこちらのブログ  をご参考下さい)

個人的には
・実家の朝倉氏はもしかして戦国大名・朝倉氏の末裔?(通字も「景」で一緒だし)
・母方が秋田藩士というのは内輪で結婚する傾向が強い鹿児島藩士としては珍しいと思いました
・その母方「阿比留」氏ってもしかして対馬から秋田に土着した人?あのあびる優と親戚とは思いたくないがヾ(^^;)
と言う所に注目しています。

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拙ブログ関連ネタ  

ご近況に関する情報が入りました。
しかもなんと鹿児島と遙か離れた北海道から
薩摩の若殿、帰郷 島津忠裕さん 「北海道との懸け橋に」(02/19 08:51)

NHK大河ドラマ「篤姫」の放映で、脚光を浴びる薩摩(鹿児島県)の島津家。その第三十二代当主、修久(のぶひさ)さん(70)の長男で、小樽商大大学院 ビジネススクールで経営学を学んでいた忠裕さん(35)=札幌市東区=が三月上旬、帰郷することとなった。島津家ゆかりの品々を展示する尚古集成館(鹿児島市)の新事業に携わるためだ。札幌での四年間の生活に別れを告げる忠裕さんは「鹿児島と北海道のつながりは予想以上。今後は両者の懸け橋になれれば」と 話す。

友人らが十八日、札幌市中央区のホテルで囲む会を開き、激励した。

忠裕さんは鹿児島市出身。慶大経済学部卒業後、日本興業銀行などを経て、現在は観光事業やレジャーを手掛ける実家の島津興業(鹿児島市)の調査役。母親の伊津子さん(69)は西郷隆盛のひ孫。

上川管内上富良野町の島津家富良野農場(島津農場)の調査などのため、二○○四年二月に東区に移り住んだ。調査の傍ら、○五年四月からは札幌学院大大学院 で都市計画を学び修了。同ビジネススクールには昨年四月から在籍し、集成館リニューアルに伴う新プロジェクトのため中退し故郷に帰ることになった。

学生時代、車で一カ月間道内を回ったり、新婚旅行先にも北海道を選んだという忠裕さんは「北海道は水がおいしく、本当に住みやすい。大雪の一昨日には、『転び納め』をしました」と笑う。
http://www.hokkaido-np.co.jp/news/topic/76857.php

リンク先には写真が載っています。気になる方は2,3日中にどうぞ。
前のかなりちっさい写真を見たときには曾祖母の伊楚子女史(徳大寺家出身)に似ていると思ったのですが、今回見たら伊楚子さんには似ていませんね。やっぱり西郷家の血が強く出てると言うか。吉之助氏(非 隆盛)にそっくりですな。

ところで

あいさつの中で、忠裕さんは「ドラマでは、お守り役の女性が自殺するなどショッキングな内容もありますが、あれは脚色。半分はドラマと思いながら見てください」と話した。

…若君 今更手遅れです。
 
 

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中日新聞が、今更な説をいかにも素晴らしい新説が登場したかのように紹介しているのでコピペ

【社説】
書き換わる聖徳太子像 週のはじめに考える
2008年2月10日

実在から非実在へ、聖徳太子像が大きく書き換えられようとしています。戦後歴史学がたどりついた成果とも、真実追究の学問がもつ非情さともいえるでしょうか。

聖徳太子を知らない日本人はまずいません。教科書風にいえば、六世紀末から七世紀前半の飛鳥時代、日本の伝統精神に仏教や儒教の外来思想を身につけ、日本の国力と文化を飛躍的に高め世界の先進国入りさせていった皇太子です。

「和を以て貴しと為す」との教えや貧しい者への優しい眼差(まなざ)し、太子の言葉とされる「世間虚仮(せけんこけ)唯仏是真(ゆいぶつぜしん)」の無常観などは、いまも人の心にしみて揺さぶります。

常識になった非実在

もっとも、一時に八人の訴えを聞いて誤りなく裁いたことから、八耳皇子(やつみみのみこ)と呼ばれたとの伝承や生まれたときから言葉を話し高僧の悟りに達 していたとの伝説、その未来予知能力や中国の高僧の生まれ変わりで、最澄は玄孫などの輪廻(りんね)転生の説話などには訝(いぶか)しさを感じさせるもの ではありました。

誇張や粉飾があったにしても、実在と非実在では話の次元が全く違ってしまいます。ところが、積み重ねられた近代の実証的歴史学の結論は「聖徳太子はいなかった」で、どうやら決定的らしいのです。

聖徳太子の実在に最後のとどめを刺したとされるのが、大山誠一中部大学教授の一九九六年からの「長屋王家木簡と金石文」「聖徳太子の誕生」「聖徳太子と日本人」などの一連の著書と論文、それに同教授グループの二〇〇三年の研究書「聖徳太子の真実」でした。

日本書紀に政治意図

それらによると、聖徳太子研究で最も重視すべきは、日本書紀が太子作として内容を記す「十七条憲法」と「三経義疏(さんぎょうのぎしょ)」。数多くの伝承や資料のうち太子の偉大さを示す業績といえば、この二つに限られるからだそうです。

このうち十七条憲法については、既に江戸後期の考証学者が太子作ではないと断定し、戦前に津田左右吉博士が内容、文体、使用言語から書紀編集者たちの創作などと結論、早大を追われたのは有名です。

三経義疏は仏教の注釈書で太子自筆とされる法華義疏も現存しますが、これらも敦煌学権威の藤枝晃京大教授によって六世紀の中国製であることが論証されてしまったのです。

世に知られた法隆寺の釈迦(しゃか)三尊像や薬師如来像、中宮寺の天寿(てんじゅ)国●帳(こくしゅうちょう)も、その光背の銘文研究や使用されている暦の検証から太子の時代より後世の作であることが明らかになってきました。

国語・国文学、美術・建築史、宗教史からも実在は次々に否定され、史実として認められるのは、用明天皇の実子または親族に厩戸(うまやど)王が実在し、斑 鳩宮に居住して斑鳩寺(法隆寺)を建てたことぐらい。聖徳太子が日本書紀によって創作され、後世に捏造(ねつぞう)が加えられたとの結論が学界の大勢にな りました。

太子像が創作・捏造となると、誰が何のために、その源となった日本書紀とは何かが、古代社会解明の焦点になるのは必然。そのいずれにも重大な役割を果たし たのが持統天皇側近の藤原不比等というのが大山教授の説くところ。長屋王や唐留学帰りの僧・道慈が関与、多くの渡来人が動員されたというのです。

日本書紀は養老四(七二〇)年完成の最古の正史で、その編纂(へんさん)過程に律令(りつりょう)体制の中央集権国家が形成されました。隋・唐の統一と東 アジアの大動乱、それによる大化の改新や壬申の乱を経て、古代社会の「倭(わ)の大王」は「日本の天皇」へ変わったとされます。

大変革の時代の日本書紀の任務は誕生した天皇の歴史的正統性と権威の構築です。それが、高天原−天孫降臨−神武天皇−現天皇と連なる万世一系の思想と論理、中国皇帝にも比肩できる聖天子・聖徳太子の権威の創作、書紀は政治的意図が込められた歴史書でした。

大山教授の指摘や論考は、歴史学者として踏み込んだものですが、隋書倭国伝との比較などから「用明、崇峻、推古の三人は大王(天皇)でなかったのではない か」「大王位にあったのは蘇我馬子」などの考も示しています。「日本書紀の虚構を指摘するだけでは歴史学に値せず、真実を提示する責任」(「日本書紀の構 想」)からで、日本書紀との対決と挑戦が期待されます。

千年を超えた執念

日本書紀が展開した思想と論理は千三百年の現実を生き現代に引き継がれました。憲法と皇室典範は「皇位は世襲」で「皇統に属する男系の男子がこれを継承する」と定めています。

しかし、万世一系は子孫を皇位にと願う持統天皇のあくなき執念と藤原不比等の構想によって成り、その父系原理も日本古来のものとはいえないようです。建国記念の日に永遠であるかのような日本の原理の由来と未来を探ってみるのも。
http://www.chunichi.co.jp/article/column/editorial/CK2008021002086536.html

なんだ、最後まで読んでみると「建国記念の日」反対表明だったわけですね。ふーん。

それはともかく、大山誠一氏の論文は長屋王関連の物をいくつか読んだことがあるのだが、陰謀論と決めつけが酷くて読むに耐えなかった記憶がある。今は聖徳太子フィクション説で稼いでられるご様子。
大山誠一著作の本
あと、中部大学といえば中日新聞の地元の大学と言うことで、地元びいきということも勘案しないといけないかな。

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垂水島津家の墓地取得へ/垂水市  市、歴史教育や観光に活用 (01/26 07:05)

垂水市田神の垂水島津家の墓地が、同市に寄付されることになった。垂水島津家は、大河ドラマの主人公篤姫と浅からぬ縁があり、市は「郷土の歴史を知ってもらうと同時に、市外の人への認知度を高められるよう篤姫と関連づけて観光にも役立てたい」と整備に力を入れる方針だ。
同家の関係者から「墓地を歴史教育の教材や観光スポットとして活用してほしい」と、市に寄付の申し入れがあった。昨年以降、協議や書類のやり取りが進み、 近く手続きが完了する予定。市によると、垂水、重富、加治木、今和泉の島津家一門のうち、墓所が行政財産となるのは垂水が初めてという。
敷地約1750平方メートルの中に、同家の歴代当主とその妻の墓がある。このうち14代貴敦(たかあつ)に島津一族内で有力な将軍正室候補だった女性(後の八百姫)が嫁いだため、ほかの複数の候補から最終的に篤姫に白羽の矢が立った経緯がある。
これまで見学者への案内や清掃など墓地の管理は、垂水島津家の関係者から依頼を受けた男性が行ってきた。行政が直接管理するようになることで、郷土史家の間でも「篤姫との関係も含め、垂水島津家を内外に知ってもらうため積極的にPRしてもらえれば」と期待が高まっている。
市も新たな観光資源として活用していく方針で、裏手の山野から墓地の一部に流入した土砂の除去など、本格的な整備に乗り出す。
http://www.373news.com/modules/pickup/topic.php?topicid=129&storyid=8859

垂水島津家は16代当主・島津義久に縁の家柄でありながら、18代当主・島津家久(忠恒)に圧力をかけられ、結果血統断絶にいたり、その後家久の血統に乗っ取られたという悲劇の家系。その後は学術に気をはく当主を輩出、明治に男爵になり華族となるも、昭和に再び嗣子夭折、跡継ぎの養女も結婚せず死去するという悲劇が襲い、現在事実上断絶している家です(T-T)
記事中に出てくる「垂水島津家の縁者」というのは、ご養女の実家に当たるところと思われます(参考『垂水市史』)。但し、鹿児島地元の方ではなく、なんと兵庫県西宮市の方とのことで、さすがに世話も無理になってきたのでしょう。何しろ墓の数だけでもものすごいですし。

ところで。
記事中に「篤姫」というのが何回も出てくるが無理に大河ネタに絡めすぎ
観光振興したい気持ちは分かるけど、どう見ても篤姫に直接関係ないし。

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タイトルの件はちょっとした謎の一つである、らしい。

南部信順は島津重豪の13男(10男とする史料もあり)、重豪69歳(○。○)のときの子供である。その後、男子を全員亡くし嗣子不在となっていた八戸南部藩の婿養子となる。
ところが、
南部家と島津家の間にはそれまで全く縁戚関係がなかった上
八戸南部藩は2万石程度、しかも盛岡藩の支藩的存在(※支藩ではない、佐土原藩と鹿児島藩の関係といっしょ。)であまりにも格がつりあわない。
しかも島津家側にも南部家側にもこの養子縁組に関する史料が残されてないため、この経緯は「謎」とされていたのである。
例えば
そんな中で、島津信順が、八戸藩八代藩主南部信真(のぶまさ)の娘、鶴姫の婿養子になったのは天保九年(1838)、二十五歳の時だった。四年後の天保 十三年、信真が隠居し、信順が八戸藩主となったのだが、島津重豪と南部信真の間にどんな交際があったのか、なぜ養子縁組をしたのか、全く記録がない。
http://www.mumyosha.co.jp/ndanda/06/bakumatu01.html

と書かれているとおりである。
『八戸市史』通史編では
(蘭癖大名の代表格である)重豪が、ロシアをにらむ八戸藩の地理に目を付けて養子を送り込んだのではないか
としている。

ところが、検索していて、偶然に興味深い話を見つけた。
  ■ 外様大名との縁組
(中略)
利雄の世子で廃嫡となった嵩信(利謹の初名)室麻姫は筑前福岡五十二万石・黒田継高の娘。利謹は三十八代利済の生父である。黒田家との通路は古く、行信の娘津屋姫が黒田宣政の室となり、麻姫は宣政の養嗣子(実は従弟)継高の娘。継高にも嗣子がなく、薩摩鹿児島藩主島津重豪の子長溥(のち治之)を養嗣子としたが、八戸藩九代を相続した信順は長溥の実弟である。
http://www.morioka-times.com/news/2006/0607/14/06071404.htm
※太字は当方補足強調 ちなみに黒田長溥黒田治之は年代も違う別人であり、この記事は事実誤認している。

島津家と南部家の間に直接縁はなかったのだが、福岡藩黒田家を通した縁で養子に送り込まれたとは考えられないだろうか。
当初南部家は縁戚の中から適当な男子を捜したが黒田家も自家の跡継ぎに恵まれない状態で、適当な人材がいなかった。そこでその黒田家の親戚である島津家から…と信順を奨められた可能性は考えられよう。

ちなみに島津家と黒田家の間は継高の嫡子・重政に島津継豊と後室・竹姫の間に生まれた菊姫が嫁いだことから初めて縁が出来、その縁が一つのきっかけとなって重豪の9男・長溥が福岡藩の養子となったのである。

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