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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
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かなり間が開きましたがエターしたわけではありません!ヾ(^^;)
大変申し訳ありませんでした。ようやく「一人百首シリーズ」再開です…前回更新から4ヶ月近くあいとるがな_| ̄|○

とはいっても、パソコンで長文打つのが肉体的につらい状態でして、以後もぼちぼちの更新になるかと思いますが宜しくお願い申し上げます<(_ _)>

では

文禄三年の夏頃に読まれたと思われる一首です
「義久公御譜中 文禄三年ニ在リ
「御文書方有」
りやうせんに参て詠之、
山ふかみ道とめ入てかしこくも
なつとうき世をよそにすむ人
(「薩藩旧記雑録 後編」2-1338)

この頃義久はたぶん薩摩に帰国していたかと思うのですが、「りやうせん」(=りようぜん(霊山))がどこに当たるか不明。

どうも和歌をそのままに受け取るとこの“霊山”に隠棲して暮らしていた人を義久は見かけた(訪ねた?)と思われるのですが、それを「夏と浮き世をよそに住む人」と表現しているところに、この隠遁者に憧憬の念があったのかなとも思えます。
ちなみにこの文禄3年の夏から石田三成の手によって島津家の領地には大規模な太閤検地の手が入ったのでした。

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桐野作人氏ブログによると
「明智光秀がキンカン頭を満座の中で織田信長にどつかれた(或いは森蘭丸に命じてしばかせた)」…という時代劇ではよく登場するこのシーン、私は今まで講談に出てくる巷説or創作と思っていたのだが…なんと史実の可能性が高いらしい。


さて振り返って拙HPのネタ(^^;)である戦国島津。
前から「ネットなどでよく見かけるが、今まで見た史料にはどうも根拠となるお話が見あたらない」、つまり典拠不明の気になる話が何点かある…

(1)島津義久は子供時代あまりに覇気がなく、一方弟(たぶん義弘だろうな)の方が出来が良くて「愚弟賢弟の見本」と呼ばれていた(ネットで検索しても292件ほど引っかかる)

この話、今のところ管見では元となる史料を見付けられません。似たような話なら長宗我部元親の逸話にあるのだが…

(2)島津豊久は関ヶ原の合戦でステガマリを決行し戦死した。この時本多忠勝配下の兵によって最期は槍で空に突き上げられたという…

これも島津側の関ヶ原関係史料では今のところ見たこと無いんですよね。もしかして本多家側の史料に書いてあるのかな?


ということで、これらの話について何かご存じの方、情報お待ちしてます<(_ _)>
結局人任せヾ(^^;)

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番組HPはこちら


うーむ、「歴史秘話ヒストリア」になってからかなり番組の内容がミーハーというかスイーツ(笑)テイストになったので見てなかったのだが、流石に今回は番組サブタイトルが
「関ヶ原、奇跡の敵中突破! ~九州最強・島津兄弟の生きるチカラ~」
…ですからね。…いや、単に「関ヶ原」「島津」なら99.999%島津義弘しか取り上げないのでヾ(^^;)、まあスルーするつもりだったのですが、これが「島津兄弟」となると、ね。
滅多にTVに取り上げられない島津義久が登場する可能性大。
これは見るしか無いじゃないですか。

ということで、ビデオ録画して視聴しました。

感想は


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以前から気になっていたのですが、今年の2月に、桐野作人氏が以下のようなコラムをUPされました。
垂水家・島津信久、波乱の生涯(上) 
垂水家・島津信久、波乱の生涯(下)
島津信久は「島津久信」の名前で有名(といっても一部島津マニアの間だけだが…)で、島津義久の次女(新城)の息子に当たることから、私もずっと気になっていた人物の一人です。

上記のコラムを読んで、いろいろ思うところをUP…しようと思っていたのですが、ご存じの東日本大震災で、何か物書きする気力も萎えてしまい、今まで引きずってしまいました。
ようやくそれなりの物が書けそうな気分になってきましたので、駄文をUPしてみます。但し、都合上諸史料を詳細に比較検討できない状況なので、結構記憶とかに頼って適当に書いてますヾ(--;)

では



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タイトルそのまんま(^^;)
いちおう現時点での内容を転載しておきます。
島津義久

島津 義久(しまづ よしひさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。薩摩の守護大名・戦国大名であり、島津氏の第16代当主。元祖自宅警備員、2ちゃんねらーでもある。

人物
天文2年(1533年)2月9日、第15代当主・島津貴久の嫡男として伊作城に生まれ、幼名は虎寿丸と名づけられた。幼少の頃は大人しい性格だった こと、そして三人の弟がいずれも勇猛で優秀だったことから「愚兄賢弟の生きた見本」という陰口を叩かれていた。しかし祖父の島津忠良が、長男に自信をつけ させるために「義久は三州の総大将たるの材徳自ら備わる」という、誉めているんだかそうでいないんだか分からない褒め言葉を言ってしまったがために、すっ かりその気になってしまった。おかげで元服した折には、まだ祖父が存命にもかからわず、同じ「忠良」を名乗っている。
逸話
自宅の警備には定評があり、彼が居城を警備していたたために、家臣は安心して戦場に赴くことができた。島津家が九州統一寸前まで領土を拡げる事ができたのも、関ヶ原後にも領土を維持できたのも、彼のひきこもり自宅警備に寄るところが大きい。

弟の義弘やロバート=デ新納などの猛将に異常に好かれていた。やっぱり基本は「受け」なのだろう。

家臣の葬式の中で、自ら出向いたのは川上久朗、山田有信の二名だけである。中でも、山田有信については、自らが棺桶を担いだと言われる。とかく、川上久朗とのアーン♥♥ばかりがネタになるけどね。

趣味は和歌であり、和歌を通じて近衛前久や細川幽斎と親しくなった。友達が少ない彼の情報ルートはこの二人のみからであったが、前者はアン チ秀吉であり、後者は戦国時代最強の「時代の空気を読む男」であったため、重大な局面において決断を誤らずに済んだ。運命の女神は義久に味方していたのか もしれない。

たまにはアウトドア的なこともやっており、一時期には犬追い物にハマった。上井覚兼は「持病の痔病で出席できません」という駄洒落をかましたため(本当)、義久の勘気を被っている。なお、上井の痔の原因が何によるものであったかは、調べてみたけど上井覚兼日記には載ってませんでした。

義久のおじいちゃんコンプレックスはそこにとどまらず、正妻まで忠良の娘(つまり実の叔母)を娶っており、その妻がなくなった後の後室ま でもが忠良の実娘である。エロゲーも真っ青の近親婚だ。最も可愛がっていた末娘も近親婚(いとこ同士)であったが、その結婚の結末については島津忠恒の項目を参照されたい。もっとも、単にお飾り君主かと言われればそうとも言い切れず、あの鬼島津こと弟島津義弘をもって「予、かたじけなくも義久公の舎弟となり」と言わしめているくらいなので、実際は鬼島津を遥かにしのぐ実力なのかもしれない。もっとも、所詮は自宅警備員の内弁慶だ、という可能性もあり、主に山本博文「通称:DQN山本」がこの学説をとっている。

彼がこもっていた自室には、古今東西の悪人の肖像画が飾られていた。本人曰く「良い事は真似しやすい。悪い事こそ真似しないように気をつけなければいけない」と、反面教師という意味だったらしいが、ひょっとするとドMなだったかもしれない(と、山本博文は力説している)。

 趣味は2ちゃんねるでの煽り、叩き。天下人になった秀吉に、この上なく挑発的なお手紙を書いたもんだから,大変な事になっちゃった。
参考 ほとんど史実ばかり書いてあるのにぶっ飛んでいる(^^;)アンサイクロペディア「島津忠恒」

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