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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
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文禄元年6月頃に作られた物です。
「義久公御譜中」
「此本在御文書方」
名護屋にて詠之、子細あり、
千種さく野辺の中にもむらさきの
いろむつましき花の一もと
(「薩藩旧記雑録 後編」3-901)

豊臣秀吉の命で名護屋城詰めをしていたときに詠まれた物です。この時義久にも朝鮮出兵の命が下りましたが、老年であることを理由にそれは回避されました、が、その代わりに名護屋城詰めを命じられたのでした。実質的には人質に取られたのではと考えられます。

このあと、梅北一揆、そして弟・島津歳久へ自害を命じるなど、この年は義久の生涯でも苦難の一年になります。そんなことを余り感じさせないのんびりした内容の一首です。

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久しぶりに見て、こんなページが出来ていたとは知らなかった。
いろいろと興味深いので以下感想など

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年紀不明、文禄元年以後慶長16年までの間に作られた物と考えられますが、文禄元年の項に掲載されています。
「義久公御譜中」
往晴簑家之跡詠焉
住なれし跡の軒端をたつね来て
しつくならねとぬるゝ袖哉  龍伯
(「薩藩旧記雑録 後編」2-943)

ご存じ、島津歳久が天正20年7月18日に梅北一揆の首謀者の一人とされ、豊臣秀吉の命により自害に追い込まれます。これは義久の生涯においても痛恨の事件の一つであったと思われ、その後いくども挽歌を書いています。これはそれらの中でも最も有名な物で、島津義久の和歌の中でも有名な物の一つかと思います。
既に既出かと思っていたが、この項が初出のようです。

参考    

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今回の和歌は文禄2年閏9月23日に作られた物です。
今回の和歌は義久が多数残した挽歌の中でも最も悲痛な物にはいると思います。

なぜなら、跡継ぎとして末娘の亀寿の夫となっていた島津久保が朝鮮で客死した際に作られた物だからです。
久保はまだ21歳でした。
『雑抄』
「久保公御譜中正文在海老原吉右衛門トアリ」
一唯恕参ハ弓馬の道をたしなミ、武士のたけき心をもつはらとして、前の殿下秀吉公異国退治の御下知にしたかひ、軍陣いとまなきに、こま・もろこしのさかひ、から嶋と云所にて、文禄二年九月七日之夜、世をはやうせしことを告しらするに、心まとひいへはさら也、其比一首をも手向まほしく侍りつれと、かなしさのあまり、いとヽよせくる老の浪にしつみ、歌のもとすゑもたヽよひ、たゝしからねは、人目の隙を忍ひ、六字の宝号をはしめに置、六首をつらね、廻向しけるものならし、
龍伯
なくむしのこゑは霜をもまちやらてあやなく枯る草の原哉
むらさきの雲にかくれし月影はにしにや晴る行ゑなるらん
あめはたゝ空にしくれぬならひあれや憂折\/の袖にかヽりて
みし夢の名残はかなきね覚哉枕に鐘の声はかりして
たつねてもいらまし物を山寺に説をく法のふかき心を
ふてをミきに弓を左りに翫ふ人の心や名に残らまし
閏九月廿三日
(「薩藩旧記雑録 後編」2-1214)

島津義久の後半生はとても厳しい物だったと思うのですが、久保が生き延びていたらそれはもうちょっと違った物になっていたと思うのです。



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(天正12年陸月)十八日
(中略)
其後忠棟茶湯被成候、忠長/拙者也、忠棟御息増喜殿宮仕共候間、
(後略)
(「薩藩旧記雑録 後編」1-1427「上井覚兼日記」)
(天正11年参月)五日
(中略)
此日申刻計、忠棟より御茶一服被下候する由候侭参候、
(中略)
配膳者忠棟御子息増喜殿只一人にてめされ候、
(後略)
(「薩藩旧記雑録 後編」1-1367「上井覚兼日記 天正拾一年正月日記」)
今までコピーだけ取っていてこの辺をちゃんと読んでなかったので思いっきり見落としていたのだが
伊集院忠棟に「増喜」という名前のこんな息子いたのか?!
…いや、一次資料の「上井覚兼日記」だし、上井覚兼が嘘付いてるとかホラふいてるとかヾ(--;)何かを見間違っているという(しかも2回も)…ということはたぶんありえないので、忠棟には「増喜」という息子が天正11年~12年の時点ではいたということは確実なんだろう。
ちなみに上の史料では忠棟の御宿所での生け花(「立花」)や茶の湯などの私的な宴会に列席(ちなみに他の出席者には上井覚兼の他、恵玄という京都の人、島津忠長)、下の史料でも忠棟邸での茶の湯という私的な宴会に列席している(他の出席者は堀池宗叱、東雪、堀池弥次郎)。

伊集院忠棟の長男と言えば伊集院忠真(天正4(1576)~慶長7(1602))参考こちら がいるが、「庄内陣記」添付系図が間違ってないとすると、天正11年で忠真は数え7歳と言うことになり、上記で紹介した史料のような大人が居並ぶ茶会などに列席するかどうか疑問が残る。なので、この「増喜」は忠真とは別人なのではないだろうか。
また、「増喜」という名前にも疑問がある。伊集院家の通字は島津本宗家同様「忠」であるように思われる(棟の父は倉、祖父は朗、息子は前述の通り真)。が、「増喜」はこの通字をふんでいない。更に疑問に思われるのは、この名前自体、どうも出家名のようにも見えることである。この頃の「上井覚兼日記」では伊集院忠棟のことを「忠棟」と諱で呼び捨てしているのだが、その覚兼ですらこの増喜に対しては「御息増喜殿」等と敬称で書いているのも気に掛かる。

忠棟には忠真の上に長男がいたのだろうか?しかもその長男を出家させていた可能性もあるのだが、その背景にあった物はなんなのであろうか?

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