拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
先日見た『ケロロ軍曹アンコール』での“闇鍋ごっこ”に出演していたナベベ闇鍋奉行様。
着用していた裃に付いていた家紋がしっかり丸十の島津家の物だった⊂(。Д。⊂⌒`つ
うーむ、何か意味があるのだろうか…。
上の話は小ネタ(^^;)
さて、時々BS-TBSで月曜夜10時に放送している「The ナンバー2」を見ている。
中味は考察をきっちりしている系の番組ではないのだがヾ(^^;) まあ民放の情報番組にそこまで期待するのは無理かと
一般的にはマイナーな人物もたまーに取り上げているのが評価できます。
先日2/13放送分は「豊臣秀吉のナンバー2 北政所おね」だったのだが、そのなかで気になるお話が紹介されていた。
秀吉が北政所によく手紙を書いていたのは有名な話だが、天正15年に島津氏を下した後に送った手紙にはこういう事が書いてあったらしい。(録画してないのでうろ覚えなのはご容赦下さい)
なお、簡単に解説すると
1.の「義久の15歳の娘」とはご存じ島津亀寿のこと
2.には樺山忠助の息子・規久などがいたかと
3.は年齢にママがあるが島津久保のことだろう
4.は年齢差から見て義弘の四男・喜入萬千代丸だろうか
さて、私、実は寡聞にして上で紹介した秀吉の手紙、見たことがないのである(^^;)
「薩藩旧記雑録」には当然収録されてない。この本とか見たら載ってるかな。
着用していた裃に付いていた家紋がしっかり丸十の島津家の物だった⊂(。Д。⊂⌒`つ
うーむ、何か意味があるのだろうか…。
上の話は小ネタ(^^;)
さて、時々BS-TBSで月曜夜10時に放送している「The ナンバー2」を見ている。
中味は考察をきっちりしている系の番組ではないのだがヾ(^^;) まあ民放の情報番組にそこまで期待するのは無理かと
一般的にはマイナーな人物もたまーに取り上げているのが評価できます。
先日2/13放送分は「豊臣秀吉のナンバー2 北政所おね」だったのだが、そのなかで気になるお話が紹介されていた。
秀吉が北政所によく手紙を書いていたのは有名な話だが、天正15年に島津氏を下した後に送った手紙にはこういう事が書いてあったらしい。(録画してないのでうろ覚えなのはご容赦下さい)
番組によると、この手紙から北政所は諸大名の人質管理という重大な役目を負っていたことが分かると締めくくっていた。1.島津義久の15歳の娘が上洛する予定です
2.その他家臣からも7,8人ほどの人質が上洛します
3.義久の弟の義弘も15歳の息子を上洛させる予定です
4.義弘は他に8歳の息子も上洛させる予定です
なお、簡単に解説すると
1.の「義久の15歳の娘」とはご存じ島津亀寿のこと
2.には樺山忠助の息子・規久などがいたかと
3.は年齢にママがあるが島津久保のことだろう
4.は年齢差から見て義弘の四男・喜入萬千代丸だろうか
さて、私、実は寡聞にして上で紹介した秀吉の手紙、見たことがないのである(^^;)
「薩藩旧記雑録」には当然収録されてない。この本とか見たら載ってるかな。
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私用でネットにアクセスできず、出先の新聞で知りました。
ご冥福をお祈り致します。
それにしても、角田文衛氏といい、日本史の研究家は長命の人が多いイメージがあります(あくまでイメージですよ)。
でもなにより悲しかったのは横田氏ほどの研究家でも、記事の扱いは太平シローに負けてたことですが(T∀T)
記事に依れば95歳と言うことで、天命を全うされたという所でしょうか。横田健一さん(よこた・けんいち=関西大学名誉教授・日本古代史)が6日、心不全で死去、95歳。キリスト教式の前夜祭は8日午後7時、葬儀は9日午前11時から京都市南区西九条池ノ内町60の公益社南ブライトホールで。喪主は長男明(あきら)さん。
日本書紀の研究で知られ、著書に「白鳳天平の世界」「道鏡」などがある。
http://www.asahi.com/obituaries/update/0207/OSK201202070057.html
ご冥福をお祈り致します。
それにしても、角田文衛氏といい、日本史の研究家は長命の人が多いイメージがあります(あくまでイメージですよ)。
でもなにより悲しかったのは横田氏ほどの研究家でも、記事の扱いは太平シローに負けてたことですが(T∀T)
7月
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9日 この日まで京都に逗留しました
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13日 この日、水お祭り(※1)のため、天王寺へお参りされました。田鍋屋が途中でお酒をプレゼントしてくれました
14日 この日、天満へ燭爐(※2)を御見物に出かけられ、帰宅途中に田鍋屋をご訪問されました
(15日 は項目自体がありません)
16日 大風
17日 巳刻に京都へご出発、夜半頃に京都に到着。
18日 <空欄>
19日 <空欄>
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21日 <空欄>
22日 高麗人が紫野の辺りを通ったので、途中でご見物されました(※3)
23日 <空欄>
24日 <空欄>
25日 この朝、紹巴とご対面、ご宴会したところで、建築中の内裏を見物されました。
26日 <空欄>
27日 <空欄>
28日 高麗人を見物するために紫野においでになられました。広済寺(※4)でご宴会がありました
29日 毛利殿(※5)からご招待。一緒に行ったのは意斎(※6)、栖松(※7)、輝元の側近で福原という苗字の人か?、後藤廣乗。ダンサー10人ほどやってきた。
30日 八朔のお礼として幽斎(※8)、前田玄以の所へ行き、また大納言様(※9)へも門までお礼を言いにいく。各へ太刀・馬を献上。
※1:不明
※2:不明、灯籠か?
※3:原文「高麗人紫野のことく罷通候、中途ニて御見物」
※4:不明
※5:毛利輝元
※6:不明
※7:不明
※8:細川幽斎
※9:豊臣秀長か?
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9日 この日まで京都に逗留しました
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13日 この日、水お祭り(※1)のため、天王寺へお参りされました。田鍋屋が途中でお酒をプレゼントしてくれました
14日 この日、天満へ燭爐(※2)を御見物に出かけられ、帰宅途中に田鍋屋をご訪問されました
(15日 は項目自体がありません)
16日 大風
17日 巳刻に京都へご出発、夜半頃に京都に到着。
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22日 高麗人が紫野の辺りを通ったので、途中でご見物されました(※3)
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25日 この朝、紹巴とご対面、ご宴会したところで、建築中の内裏を見物されました。
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28日 高麗人を見物するために紫野においでになられました。広済寺(※4)でご宴会がありました
29日 毛利殿(※5)からご招待。一緒に行ったのは意斎(※6)、栖松(※7)、輝元の側近で福原という苗字の人か?、後藤廣乗。ダンサー10人ほどやってきた。
30日 八朔のお礼として幽斎(※8)、前田玄以の所へ行き、また大納言様(※9)へも門までお礼を言いにいく。各へ太刀・馬を献上。
※1:不明
※2:不明、灯籠か?
※3:原文「高麗人紫野のことく罷通候、中途ニて御見物」
※4:不明
※5:毛利輝元
※6:不明
※7:不明
※8:細川幽斎
※9:豊臣秀長か?
6月
1日 <空欄>
2日 渋谷対馬守(※1)へ対面されました
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4日 <空欄>
5日 秀存坊(※2)に申し受けられました(※3)
6日 <空欄>
7日 祇園(※4)を見物されました。文閑寺(※5)へ紹巴・昌叱と一緒に立ち寄られ、いろいろお心配りされました
8日 <空欄>
9日 民部卿法印(※6)の宿所に用を請けに行きました(※7)、一緒に行った紹巴・昌叱と終日パーティー。
10日 宗与(※8)へ対面されました。この日東山に青蓮院様(※9)が来られ、使者に色紙を書いてもらうようお願いしました
11日 龍山様(※10)の所に参上。
12日 <空欄>
13日 西方寺(※11)をご見物、あわせて桂所(※12)に行かれてお歌を読まれました
14日 早朝、龍山様の所へ参上され、その後すぐ祇園見物(※13)されました
15日 <空欄>
16日 <空欄>
17日 <空欄>
18日 清水(※14)へお参りされました。駕籠でお帰りの時、桑名(※15)に申し受けられました(※16)
19日 龍山様の所へ参上。
20日 ただす(※17)へお参り。歳阿弥(※18)・後藤廣乗(※19)が来ました。
21日 懐旧の連歌を紹巴の家で興行されました
22日 巳刻、大坂に御下向されました。が、私は同行せず京都に逗留しましたので日記は暫く休みです
23日 <空欄>
24日 <空欄>
25日 <空欄>
26日 <空欄>
27日 <空欄>
28日 <空欄>
29日 <空欄>
30日 <空欄>
注1:不明
注2:不明
注3:申請内容不明
注4:祇園祭か?
注5:不明
注6:前田玄以
注7:何の用だったか不明
注8:不明
注9:尊朝親王
注10:近衛前久
注11:おそらく現在の西方寺(苔寺)と同一か
注12:詳しくは不明、近衛家の桂の別荘でもあったか?
注13:時節から見て祇園祭見物か
注14:清水寺か
注15:不明
注16:用件内容不明
注17:下鴨神社か
注18:不明、能楽師か
注19:不明、後の後藤庄三郎家の親族・金工師か?
1日 <空欄>
2日 渋谷対馬守(※1)へ対面されました
3日 <空欄>
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5日 秀存坊(※2)に申し受けられました(※3)
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7日 祇園(※4)を見物されました。文閑寺(※5)へ紹巴・昌叱と一緒に立ち寄られ、いろいろお心配りされました
8日 <空欄>
9日 民部卿法印(※6)の宿所に用を請けに行きました(※7)、一緒に行った紹巴・昌叱と終日パーティー。
10日 宗与(※8)へ対面されました。この日東山に青蓮院様(※9)が来られ、使者に色紙を書いてもらうようお願いしました
11日 龍山様(※10)の所に参上。
12日 <空欄>
13日 西方寺(※11)をご見物、あわせて桂所(※12)に行かれてお歌を読まれました
14日 早朝、龍山様の所へ参上され、その後すぐ祇園見物(※13)されました
15日 <空欄>
16日 <空欄>
17日 <空欄>
18日 清水(※14)へお参りされました。駕籠でお帰りの時、桑名(※15)に申し受けられました(※16)
19日 龍山様の所へ参上。
20日 ただす(※17)へお参り。歳阿弥(※18)・後藤廣乗(※19)が来ました。
21日 懐旧の連歌を紹巴の家で興行されました
22日 巳刻、大坂に御下向されました。が、私は同行せず京都に逗留しましたので日記は暫く休みです
23日 <空欄>
24日 <空欄>
25日 <空欄>
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27日 <空欄>
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注1:不明
注2:不明
注3:申請内容不明
注4:祇園祭か?
注5:不明
注6:前田玄以
注7:何の用だったか不明
注8:不明
注9:尊朝親王
注10:近衛前久
注11:おそらく現在の西方寺(苔寺)と同一か
注12:詳しくは不明、近衛家の桂の別荘でもあったか?
注13:時節から見て祇園祭見物か
注14:清水寺か
注15:不明
注16:用件内容不明
注17:下鴨神社か
注18:不明、能楽師か
注19:不明、後の後藤庄三郎家の親族・金工師か?
前の話はこちら
かなり古いエントリーに、去年の9月突然コメントが付けられた。
気になる点もあり、応答を続けると言うことも出来たのだが、当方の病気や疲労でまともに応答の応酬が出来る状態ではなくなってしまい、お礼を言うという形にして無理矢理切ってしまったのでした。本当に済みません…
ちなみに
氏家幹人氏の『武士道とエロス
』か『江戸の少年
』に載っていた話なのである。
なお、その後いくつか「ひげのない戦国武将肖像画」を見付けた。
・明智光秀 有名な肖像画だがすっかり忘れていた(^^;)
・今川義元 肖像画じゃなくて木像ですが…
それと御教示のあった大内義興、この3人に共通する物は…
都の文化に造詣が深かったこと。
あ、その大内義興の息子で更なる都かぶれの大内義隆さんの肖像画に髭があることにつっこみは無しですよ(^^;)
かなり古いエントリーに、去年の9月突然コメントが付けられた。
気になる点もあり、応答を続けると言うことも出来たのだが、当方の病気や疲労でまともに応答の応酬が出来る状態ではなくなってしまい、お礼を言うという形にして無理矢理切ってしまったのでした。本当に済みません…
ちなみに
というのは私独自の解釈ではない。・顔:戦国武将はひげを生やすことが通例だったのに、この画像はひげを生やしていない。武士がひげを剃るのが普通になったのは、江戸時代初期以降といわれる。
氏家幹人氏の『武士道とエロス
なお、その後いくつか「ひげのない戦国武将肖像画」を見付けた。
・明智光秀 有名な肖像画だがすっかり忘れていた(^^;)
・今川義元 肖像画じゃなくて木像ですが…
それと御教示のあった大内義興、この3人に共通する物は…
都の文化に造詣が深かったこと。
あ、その大内義興の息子で更なる都かぶれの大内義隆さんの肖像画に髭があることにつっこみは無しですよ(^^;)

