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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
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天正18年と云えば、すでに島津氏は豊臣秀吉の前に降伏し、秀吉からこれでもかと命令される貢ぎ物の強奪賦役や軍役に四苦八苦しており
…まあ前置きが長くなりましたが、要は落ち目だったわけですが(涙)
そんな島津さんになんと「あなたの偏諱を下さいな」といってきた変人がいたらしい。

「義久公御譜中」
(前略)
同月(※天正18年12月)十三日、平戸松浦肥前守依所望許諱字、称其謝礼得宝刀於我、我亦進所帯之刀於肥州者也、
(後略)
(「薩藩旧記雑録」後編2-709)

天正拾八年 自三月至十二月
御日記
(前略)                                           (本マゝ)
(天正十八年十二月)十三日、此日、平戸肥州御字被申請刀、   一十四日 進上、自 御前も御腰物被給、
(後略)
(「薩藩旧記雑録」後編2-715)

島津義久の偏諱をもらった、この平戸肥前守とは、ずばり松浦久信だろう。
しかし、何でこんな時期に落ち目の大名から偏諱もらおうとしたのか…松浦さんの考えていることはわからん…


拙ブログ関連ネタ こちら

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注記
これから暫く「義久君上京日記(仮)」関連の歌が続きます。
「義久君上京日記(仮)」は昇順(1月→2月)と紹介したのですが、和歌の方はこちらのブログでは降順(12月→11月)と紹介していますので御了承下さい。


天正18年11月、在京中に詠んだ歌です。場所は今年の大河にも関係している?あの場所のようですね。

「義久公御譜中」
天正十八年十一月四日、詣鞍馬寺、入妙法坊為祈誓、而後所以帰京也、此時詠之、
「在御文書方」
 はつ雪を待うるまてに色こくも
 散のこりたるもミち一もと
天正十八年十一月十三日、與兵庫頭義弘倶発京都往大和、
同十四日、入大納言之第伸禮詞、而其翌帰京也、
同月十八日、有堀池弥次郎之招、與義弘倶入其宅、則有座敷能、呉服・梅枝・小蝶・自然居士・長良等也、
同月廿四日、依舞孫三郎之招、到其屋有乱舞、□(本来の字は「台」にしんにょう)深更矣、
天正十八年十一月廿七日、詣東山 龍山公、聴高話移時刻、戌時帰京也、
同月晦日、早旦招石田治部少輔三成於茶室、勤苔茗兵庫頭亦出座也、
同日、迄晩景賜帰国之暇、不計大慶非所言之可得而□(本来の字はてへんに「慮」)矣、
(「薩藩旧記雑録 後編」2-706)

鞍馬寺に詣でた日以外の記録も何故か一緒に収録されています。和歌とは関係ないのですが何故でしょ?

14日の「大納言」は豊臣秀長のことでしょう。大和郡山城までお見舞いに行ったものと思われます。実はこのときトラブルがあったようなんですが…それは別項にて。
その他は能役者と一緒に遊んでいることが多い様子。あ、「龍山公」こと近衛前久との遊びもヾ(^^;)
が、一転して11月末日は石田三成を朝早くから茶会に招いています。まあ単なる茶事ではなく政治の密談が主目的なのは明らかでしょう。同じ日に「景賜」なる家臣に帰国の暇を与えていますが、景賜が誰なのかは不明です。ご存じの方がいらっしゃいましたら御教示お願いします<(_ _)>


「義久君上京日記」該当箇所こちら

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12月
1日 北郷讃岐守(注1)と早朝に話し合い
2日 申刻に清水へお参り、戌刻にご帰宅。大雪だったので道中の難儀は言うに及ばず…
3日 早朝にご出発され(注2)、北野(注3)へお参り、この日も終日雪だった
4日 ひび野(注4)へお参り、この晩幽斎にお願い、武庫様もご出席、石田殿もやってきて、薩・隅辺りの領地処分について。
   この日、青蓮院様においとまごいをしに行ったが留守とのことだった。途中で出会うのも道理かと(注5)、
   雑事など嘉竺(注6)へ申しつけられ、駕籠で帰られた。
5日 石田殿(注7)、御家門様(注8)へお暇乞いのために出られた。この日、幽斎その他おいとまごいをする人が多数やってきた
6日 辰刻に京を出発、東寺の茶屋の人がお酒をプレゼントしてくれた。鳥羽から船で大坂へ、大坂には戌刻到着
7日 <空欄>
8日 住吉(大社)へお参り、この日龍山様から馬をプレゼントしてもらう
9日 <空欄>
10日 <空欄>
11日 <空欄>
12日 武庫様のお宿へ用があると、終日
13日 この日、平戸肥州(注9)が御字を申請する刀
14日 御前からも、腰刀をプレゼントした
15日 舟本(注10)までおいでになったよ、すぐに武庫様のお宿でご対面、宴会はなし
16日 武庫様が上洛されました。急なこと。その理由は東国の方で一揆が起きたことらしい。中納言殿(注11)、石田殿、真下殿(注12)が出発されるとの話を聞かれてご出発されたとか。この日、大雪だった。


注1:北郷忠虎か?
注2:原文「早朝為御門出」
注3:北野天満宮
注4:該当場所不明
注5:原文「中途迄出合申理」
注6:八木正信 詳細は拙ブログのこの記事参照
注7:ご存じ石田三成
注8:近衛信尹
注9:松浦久信か?
注10:該当場所不詳
注11:不明、小早川隆景? ※豊臣秀次らしい
注12:不明 ※増田長盛らしい

※注11,注12に関してはコメントも併せて参照下さい

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拙ブログ関連ネタ こちら


先日桐野氏から紹介された物です。
読んでみると中々に興味深い内容なので、拙ブログで全文紹介

結構長い_| ̄|○ 頑張って入力します…

昨日薩摩の国より肥後の国まで退き申し候間、御心やすく候べく候。六月五日頃に筑前の国博多まで参り申すべく候。これは、はや/\半分退き申し候。大坂へは半分道にて候。博多にて普請申しつけ、六月中にて門司、七月は十日頃に大阪へ帰り申すべく候。御心安く候べく候。壱岐・対馬の国まで人質を出だし、出仕申す事。又、高麗の方まで日本の内裏へ出仕申すべきよし、早船を仕立て申しつかはせ候。出仕申さず候はゞ来年成敗申すべき由、早船をしたて申しつかはせ候。唐国まで手に入れ、我ら一期のうちに申しつくべく候。さげすみをいたし候へば、一段骨折れ申し候。今度の陣に、白毛多くでき申し候て、抜き申す事もなり申さず候。御目にかゝり候はんこと、はもじに、そもじへばかりは、苦しからずと存じ候へども、迷惑に候、
 五月廿九日
五月十日の文、今月廿八日、肥後の国佐敷にて拝見候。明日は八代まで越し申すべく候。島津走り入り候、其の済ましやうの事。
一、島津義久人質、十五ばかりの娘ひとり子。
一、義久在京の事。
一、宿老ども人質、十人ばかりの事。
一、島津兵庫頭人質、十五になり候惣領の子大坂に詰めさせ、又、八になり候子を人質に出し候事。
一、島津中書女子を連れ、在大阪致し候間、薩摩の国・大隅両国取らせ、ゆるし、ことごとく、いへ
(ママ)
んいさせ

前回の拙記事でだいたいの解説は済んでいるが、前回では分からなかった部分など追記

又、高麗の方まで日本の内裏へ出仕申すべきよし、早船を仕立て申しつかはせ候。出仕申さず候はゞ来年成敗申すべき由、早船をしたて申しつかはせ候。
(また、朝鮮の方にも日本の御所へ仕えるようにと早舟を使って連絡させた。もし仕えないといった場合は、来年攻撃するぞと、早舟を使って連絡した ※以上拙訳)

桑田忠親氏も後の解説で触れているが、天正15年時点ですでに秀吉の頭の中には朝鮮出兵の意思があった事が伺える文章である。しかし、対馬・壱岐(=宗氏)と高麗(=朝鮮王国)が同列というのが…秀吉の世界観が見えて興味深いです。

そして、桐野氏も指摘していた、この問題の記事。
                                                               (ママ)

島津中書女子を連れ、在大阪致し候間、薩摩の国・大隅両国取らせ、ゆるし、ことごとく、いへんいさせ

拙訳すると
「島津家久が妻子を(人質として)連れ、大坂にいる間に、薩摩・大隅両国を与え、(反抗の)罪を許し、(以下翻訳保留)」
つまり、義久・義弘の弟である家久に、島津家の本領である薩摩/大隅を与えてしまおうという事である(○。○)。

しかし、それならば何故義久を上洛させ、更にはその娘(亀寿)をわざわざ人質に取ったのか、又義弘の息子(島津久保、喜入萬千代丸)は2人も人質に抑えたのか、合点がいかないところがある。
秀吉は、家久に島津家の本拠を与える代わりに義久・義弘は別の土地に飛ばす計画でももっていたのだろうか?それとも、家久に島津家の本拠を与えるという事は家久を島津家の当主に定めるとも取れるから、家久の配下に義久・義弘を置こうとしたのだろうか?

実は良く意味が取れなくて翻訳保留にした「ことごとく、いへんいさせ」と言う所に謎を解決する糸口があるのかも知れないが…ご意見お待ちしています<(_ _)>


ところで。
この本、古い(初版は昭和30年代)ためだろう、いろいろつっこみ所があるのだか、特に上の文章の解説のこれ。

義久の女とあるのは娘の菊若のこと、
(p.125)

…「菊若」って…だれ?ヾ(^^;)

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家人がJAFの会員のため、毎月会報『JAF MATE』が送られてくる。
内容は運転や交通マナーネタばかりではなく、旅のコラムみたいな物もあって、毎号楽しみにしたりしているのだが(^^;)

今月の旅の特集は「摂津・播磨」



思いっきり地元じゃーんヾ(^^;)
というわけで、いつも以上に興味深く拝見。

あまり知られていないが、どうやら、神戸の人たちは平清盛がとても好きらしい。
(p.24)

そうかなあ?(゜_。)?(。_゜)?
というか、神戸以外で平清盛がどう思われているのか、私は知りたい。
少なくとも戦前教育?『平家物語』まる覚えのように、単純に悪者として思っている人は少ないのではないかなあ。いや、単純に日本史の暗記のネタとしか思われてないようなヾ(--;)
ちなみに我が家の家人は神戸育ちですが、小学校の社会の教科書には平清盛は神戸の偉人として出てきたそうです。しかしかなり昔のことなので(^^;)今もそうなのかは知らない。

「神戸の人間が清盛をものすごい好きな一つの理由は、都を持ってきたからです」
そうおっしゃるのは、園田学園女子大学名誉教授・田辺眞人先生だ。
(p.24)

いやだからそう思ってるのは田辺先生だけなんではヾ(^^;)
ちなみに田辺先生は神戸の歴史系カルチャー講座には欠かせない有名人で、まあ神戸市の歴史講座のタージンと言えば…すいません、関西在住者しか分からないネタで。

外国との交流を避けて250年あまり。当時の知識人の思考は、鎖国をしていた江戸時代末と似ている。
「清盛がやろうとしたことは勝海舟みたいな面があるわけです、ね」(※補注:このコメントは先述の田辺氏による物)
こういう風に時代の気分を説明されて、一気に清盛という人物の性格が浮かび上がってくる。確信的で常識や慣習に捕らわれないのだ。だからこそ、清盛は神戸に都を移した。大輪田泊(現在の神戸港西部)が日宋貿易で富をもたらすことを理解していたのだ。
(p.24)

いや、多分清盛は単純に平家の利益を考えて都を移しただけだと思うぞ。勝海舟と一緒にしたらかわいそうだぞ、海舟がヾ(^^;) ちなみに自家の利益を考えて自分の陣地に都を移した例としては橘諸兄(拙ブログこのネタ)とかがいる。
でも清盛弁護しておくと、自家の利益中心思考はこの時代の上流階級(貴族とか、源頼朝みたいな武家のトップクラスも含めて)としては常識。清盛の日宋貿易重視はそれまでの貴族が荘園のような自国内の田畑から上がる収入に頼ったのに対して、外国から収益を上げると言うことを考えた点では革命的だよね。


次は大阪。

大阪の人たちは、豊臣秀吉が大好きである。
(p.26)

これは分かる。その人気は熊本県における加藤清正、山梨県に於ける武田信玄のように神聖かつ侵すべからずといった感じ。ただある年代から上の人に顕著な傾向かも。
私の記憶では昭和50年代後半あたりから朝鮮半島から日本への影響を重視する歴史思考がでてきて、で、秀吉と言えば朝鮮の不倶戴天の敵+大阪には日本最大の在日コミュニティがある…などなどの理由で、昔ほどの人気ではない(というか隠れ太閤タンになってる?)ような。あるいは『プリンセス・トヨトミ 』のようにギャグのネタにされているような。ヾ(^^;)

ところで、大阪城、一時期韓国人観光客の落書きの餌食になってたという事を聞いたが、超円高で外国人観光客が減ったとおぼしき今、修繕されてるんでしょうか。

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