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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
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病院で今月号の『サライ』を読んでいて、おもしろい記事を見つけたのだが
紅葉で有名すぎる、京都は嵐山の常寂光寺

ここの本堂を建てた(と言うか持ってきた)のが、あの小早川秀秋なのだという。
更に、この本堂、伏見桃山城の遺構という寺伝があるみたい。

TV番組や一般向けの歴史記事などでは余り書かれてないことなので、ここで備忘録代わりに書いてみた。
伏見桃山城の遺構と言うことは、慶長五年ーあの関ヶ原の合戦以降の移築という事になるのかな。
秀秋の心中には関ヶ原で戦死した者の供養の意味もあったのだろうか。

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「本藩人物誌」より、興味深い人物のご紹介。

吉田刑部左衛門清縄 日野小三次 喜兵衛改吉田 子孫 吉田四郎兵衛
天正十二年生同十五年九州入ノ時日野大納言殿之孫日野小三次母子五人仕大友家干時吉田美作守生捕来り「小三次ハ」 義久公被「改テ喜兵衛ト称ス」姉ハ美作守室トナリ「故ニ美作守請テ喜兵衛ヲ吉田氏ニ改シム則刑部左衛門清縄ナリ」

大友氏に日野家が仕えていたという話は、検索した限りでは裏が取れず不明。しかし、大友氏と少なからぬ関係のあった大内氏の元には大勢の公家が疎開していたという話は有名であり、大内氏滅亡後、庇護を求めて大友氏に落ち延びた公家が居たことは推察できよう。

ちなみに捕獲した(ついでに娘を嫁にしてしまった)吉田美作守とは吉田清孝のこと。後に、亀寿付きとなり、関ヶ原の合戦後亀寿の大阪脱出に尽力する人物である。なお、「本藩人物誌」によると吉田清孝の跡は養子が嗣いだとあり、日野氏の娘との間には子供に恵まれなかったようである。


拙ブログ関連ネタ こちら

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(※ばんない補足 天正13年3月)十五日、衆中各被来候、見参申候、従野尻、佐土原井蔵八町之事、一両年糸原名之打替として市作(注1)拵之由、かこしまより承候、然共一向為ニ罷成事無之候、其故者、于今方〃より懸持共候、左様之処然〃不知候間、検地させられ候て可然之通、かこしまにて承被成候、従此方も検地衆相添候へと承候間、岩崎刑部少輔・江田源七兵衛尉遣候、野尻よりハ長名字之方也、
(「薩藩旧記雑録」後編2-18「上井日記」)※下線はばんない補足

注1:市来家守

一般的にどんぶり勘定と言われる文禄検地以前の島津家ですが、一応検地はやってたみたいです。
…どれくらいのレベルかわかんないけど。

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天正10年9月22日の連歌会の物です。
かなり膨大な量のため、義久の句の前後を抜粋して引用します。

「本田助之丞蔵」
天正拾年九月廿二日
  第六
賦何木連歌
(5首略)
真砂の上にあそふをし鴨       珠長
冬枯の芦辺にすめる水晴て   義久朝臣
月影さむみ暮わたるなり       篤和
(14首略)
風立はうす霞とや成ぬらん      篤和
ひとつにさかくせゝのしら浪    義久朝臣
ともすれはおりゐる鷺の打むれて  久正
(16首略)
ふねはむかいにくるゝ河岸       可丹
答ぬをとふに心やつくすらん   義久朝臣
あまりなるまてはちかハす中     芳渓
(8首略)
空の戸の明はなるれは雲引て    珠長
出るより日のかけのさやけさ   義久朝臣
武蔵野や草の葉ことのうら枯に   久隅
(13首略)
萩すゝき萌出るよりむすほゝれ    珠長
花さかぬ間の野へのいさなひ  義久朝臣
露にぬれうくいすとの打はふき    玄佐
(6首略)
荒れしところはあるしなる月      其阿
我身のミもとの秋にし帰りきて  義久朝臣
露のちきりそむすひ捨たる      珠長
(2首略)
風かハりまほにかたほに興津船   玄佐
あまつほしともえこそわかれぬ  義久朝臣
里\/の真柴のけふりなひきあひ  宗運
(11首略)
明石かた浦のみるめのたゝならて  珠長
よるへありてや舟はこむらむ   義久朝臣
かけ一木岩ほにかすむ花の色    篤和
(1首略)
賀雲三 智善五 玄佐七 珠長十 久隅八
其阿八 常栄六 可丹五 芳渓十 友治七
義久朝臣八句 宗運七 篤和五 陽暹一
忠棟五 久正五
(「薩藩旧記雑録」後編1-1293)

賀雲:不明
智善:不明
玄佐:樺山善久
珠長:高城珠長
久隅:川上久隅
其阿:不明
常栄:不明
可丹:不明
芳渓:不明
友治:不明
義久朝臣:島津義久。今回の主人公(爆)
宗運:不明 前にも指摘したけれど、甲斐宗運じゃないと思う
篤和:税所篤和
陽暹:不明
忠棟:伊集院忠棟
久正:喜入久正

名前の分かっている人だけで言うと、この当時の義久にかなり近い人で集まった連歌会のようです。

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「上井覚兼日記」の天正13年卯月25日条に、タイトルに書いたとおり島津久保と忠恒の元服の様子が記録されている



といっても、覚兼は元服式には同席せず、又聞きのようだが_(。_゜)/
にしても、久保と忠恒の元服の様子を知る、かなり早い史料であることは間違いありません。

一廿五日、 早旦天神へ別而読経等申候、従夫出仕申候、御月次御連歌也、 太守様(注1)者御虫気とて御出座なく候、然者、隙入事候ハす候侭、軈而罷帰候、町田羽州(注2)礼ニ御座候、閑談共也、先日 武庫様(注3)へ一ヶ条御承之使麟台(注4)・町羽(注5)・伊伯(注6)被成候、 武庫様も人してきこしめされ候、其使、喜入摂州(注7)・有川雅楽助(注8)・上井次郎左衛門尉(注9)にて候つる由物語候、又 武庫様御息(注10)御元服之様子、理髪之役中書公(注11)被成之由也、御名又一郎殿と申由也、御次男(注12)御元服者、 武庫様御仮屋へ 太守様御光儀之時と聞得候、理髪者町羽被成候由也、御名又八郎殿と申由也、又一郎殿御進上式之御引物、御酌之時刀御進上之由也、 太守様より御腰物御給被成由也、又八郎殿鎧甲進上被成、是も 御腰物御賜之由也、御進物酒肴等之事ハ不及書戴候、大方物語如此候、此日も、当初衆各被来閑談共也、御酒なと参会候、
(「薩藩旧記雑録」後編2-18)

注1:島津義久
注2:町田久倍
注3:ご存じ島津義弘
注4:島津忠長 官名の「図書頭」の所属”図書寮”を中国風に読むとこうなる
注5:町田久倍
注6:?
注7:喜入季久
注8:有川雅真 伊勢貞昌のお父さん
注9:上井秀秋
注10:後の文章読めばわかるのだが、島津久保のことである
注11:島津中務大輔家久 「中書」は官名“中務大輔”の中国風読み
注12:島津家久(忠恒)

私の感想など



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