拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
前の話はこちら
前の話を読んでもらえると分かるように、私は巷説の
「島津豊久が伯父の義弘をしたって、その加勢のために関ヶ原にはせ参じた」
…というのを疑っているのですが
「旧記雑録後編」3に、その辺の事情の参考になりそうな史料を見つけました。
3-1132「義弘公御譜中 正文在新納仲左衛門忠雄」
3-1133「御文庫廿三番箱十四巻中 義弘公御案文」
この2文書はほぼ同文です。後に載せられた御文庫にあった方が元々の御案文の本体と考えられますので、そちらの方を見てみます。
ちなみにこの前年まで豊久は庄内の乱に参加するため帰郷していた。その後、いつどのような事情で上洛することになったのか、現在私が持っている史料では関連する記述を見つけられず不明である。
前の話を読んでもらえると分かるように、私は巷説の
「島津豊久が伯父の義弘をしたって、その加勢のために関ヶ原にはせ参じた」
…というのを疑っているのですが
「旧記雑録後編」3に、その辺の事情の参考になりそうな史料を見つけました。
3-1132「義弘公御譜中 正文在新納仲左衛門忠雄」
3-1133「御文庫廿三番箱十四巻中 義弘公御案文」
この2文書はほぼ同文です。後に載せられた御文庫にあった方が元々の御案文の本体と考えられますので、そちらの方を見てみます。
いろいろと興味深い内容の案文だが、今回注目する点は太字で強調したが「同名中務太夫、爰元へ召留」という箇所だろう。「同名中務太夫」とは島津中務大輔、つまり島津豊久を指すと見て間違いないのではないだろうか。この案文が事実を書いているとすれば、島津豊久は自分の意思で関ヶ原に行ったのではなく、伯父の要請で畿内にとどめ置かれたことになる。一 伏見御城本丸・西丸之間ニ御番可仕之由、及両度ニ雖申理候、無御納得候事、
一 秀頼様 御為、可然儀ニおひてハ各御相談次第と安国寺(注1)へ申候事、
一 安国寺御留之事、
一 伏見・大坂之しまり之事、
一 増右(注2)より参候書状、小摂(注3)へ遣申候事、
一 如右御城内へ不致在番候者、大坂へ罷下、 秀頼様御側へ可致堪忍存候事、
一 同名中務太夫、爰元へ召留候事、
一 御奉行衆之内御一人、伏見へ御在番候事、
七月十二日之夜半、大坂へ旅庵被差下御条書之案文也、
注1:おそらく安国寺恵瓊のこと
注2:増田長盛のこと
注3:小西行長のこと
ちなみにこの前年まで豊久は庄内の乱に参加するため帰郷していた。その後、いつどのような事情で上洛することになったのか、現在私が持っている史料では関連する記述を見つけられず不明である。
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前の話はこちら
島津久慶は、島津4兄弟の一人・島津歳久の曾孫で、寛永頃の島津家の家老となり島津家久→光久2代に仕えますが、死後に系図から削除されるという異例の扱いを受けた人物です。
「本藩人物誌」では、その原因を久慶の養子・久予(久憲)の項で詳しく紹介しています。
以下箇条書き
比較的読みやすい「本藩人物誌」の中では珍しく読みにくい文章が散見され、勢いで訳した部分があるので、正確なデータを知りたい方は図書館で読むなりして実際の内容をご確認下さい<(_ _)>
が、すべてが事実だったのでしょうか?というのも「本藩人物誌」”国賊伝”の他の人物の伝記と比べても、出来過ぎというかこれでもかというか、あまりにも濃すぎるネタが多いのです。
島津久慶は、島津4兄弟の一人・島津歳久の曾孫で、寛永頃の島津家の家老となり島津家久→光久2代に仕えますが、死後に系図から削除されるという異例の扱いを受けた人物です。
「本藩人物誌」では、その原因を久慶の養子・久予(久憲)の項で詳しく紹介しています。
以下箇条書き
比較的読みやすい「本藩人物誌」の中では珍しく読みにくい文章が散見され、勢いで訳した部分があるので、正確なデータを知りたい方は図書館で読むなりして実際の内容をご確認下さい<(_ _)>
- 「於長」という美形の男子を百姓から取り立てて小姓とし、歴々の衆(島津家代々の家臣か?)に差し向けたり、節目には宮仕えの人に召し寄せられたりした
- その噂を聞いた島津光久が於長を鹿児島城で働かせるように命じたが言うことを聞かなかった
- 一向宗を信じて領内に広めようとした
- 幕府の大久保加賀守(大久保忠職か?)に取り入って島津光久の悪口を言上した
- そのため家老職から外して「異国方宗門方」という職に遷したところ、今度はそれを根に持って登城しなくなった
- かつて於長を差し向けた歴々の衆(の寝床?)にも密かに潜入し、その証拠として枕元の刀を盗ませた
- どういう事情か分からないが、その後於長が久慶の野心を家老衆に訴えて、やがて光久にも聞こえることになった。すると久慶は「於長はかねてから盗みを働く(先述の「刀泥棒」のことか?)悪人だったから、主人の無実の罪をでっち上げて陥れようとしたのだ」と申し開きし、於長を磔にした。
- 自分の私領に僧侶を呼び寄せ、光久を呪い殺そうとした(この僧侶2名は発狂して自害したとも)
- 家老衆やその他(於長を?)差し向けた衆らを毒殺しようとしたことも於長が訴えようとしたことである
- この噂を聞いた家老・三原左衛門(=三原重庸)に寺入りを申しつけたのも久慶の讒訴による物である
- 久慶の死後、久慶養子・久憲から久慶の野心の証拠があるとの話があり、於長の訴えがすべて事実だったことが分かった。そのため久慶を系図から削除した
が、すべてが事実だったのでしょうか?というのも「本藩人物誌」”国賊伝”の他の人物の伝記と比べても、出来過ぎというかこれでもかというか、あまりにも濃すぎるネタが多いのです。
- のっけから衆道ネタヾ(--;)
- 悪人=一向宗信者というのは島津家の常套手段(伊集院忠棟もそう。ただし忠棟の場合はどうも妻は実際に一向宗徒だったようだが)
- 自分が人の物を盗んでおいて、後にその罪を家臣になすりつけた…というと大悪人だが、その家臣がのっけに出てきた衆道の相手というのがいかにも胡散臭い。
- 当主(島津光久)を呪い殺そうとする 但し「呪殺の罪」というのは実際にやったかどうかが分かりにくく、奈良時代の昔より政敵失脚の陰謀のタネになりやすいのも事実(例:井上内親王の失脚)
- これら久慶の「陰謀」が死後、それも養子(実の甥)の告発によって発覚する
- しかもこの養子、その後何故か理由不明のまま種子島に流刑
前回の話はこちら
「呉服師由緒書」に掲載された後藤縫殿丞・松林家の記述は庄三郎家の由緒書きが10代に渡りかなりの分量なのに対し、少な目です。それどころか、同じ「呉服師由緒書」に掲載された茶屋四郎次郎家の記述の分量の半分もないくらいなのです。しかし、江戸時代初期に後藤庄三郎・角倉了以と並び賞された茶屋四郎次郎家より先に掲載されたところから見て、この「呉服師由緒書」が作成された頃には後藤縫殿丞・松林家の格は茶屋四郎次郎家より上と思われていたのかも知れません。
では本文紹介。短いので頑張って全文掲示します。
1節目では、以前拙HPのこちらで紹介したように、島津長徳の息子が後藤松林(少林)の養子となったことが書かれています。私が参考にした資料では養子先の後藤家のことが全く分からなかったのですが、「由緒書」によるとどうも徳川家の譜代の旗本のようですね。蛇足ですが島津長徳の出自について「島津○○守弟」と欠字になっているのが興味深いです。もしかしたら元史料の虫損じゃなくて、本当に伏せ字だったのかも。譜代の旗本の実家が外様の大大名となるといろいろやばそうですから。
2節目~最終節では、そのような譜代の侍がなぜ呉服師という商人になっていったのかを説明しています。当初二条城にあった将軍家の衣裳の管理をしていたのですが、それがきっかけとなって大奥に収める着物を扱うようになり、商人へと転じていったようです。
しかし、巻頭に書かれているように幕府からは「200石」という領地も拝領しており、半士半商という妙な立場だったのでしょうか?この辺り、私は幕府御用商人というのが余り分からないので何とも言えませんが…。
「後藤庄三郎由緒書」「呉服師由緒書」を所収した『徳川時代商業叢書』の前書き(緒言)では、その後の後藤縫殿允(縫殿助)家についてこう説明しています。
「呉服師由緒書」に掲載された後藤縫殿丞・松林家の記述は庄三郎家の由緒書きが10代に渡りかなりの分量なのに対し、少な目です。それどころか、同じ「呉服師由緒書」に掲載された茶屋四郎次郎家の記述の分量の半分もないくらいなのです。しかし、江戸時代初期に後藤庄三郎・角倉了以と並び賞された茶屋四郎次郎家より先に掲載されたところから見て、この「呉服師由緒書」が作成された頃には後藤縫殿丞・松林家の格は茶屋四郎次郎家より上と思われていたのかも知れません。
では本文紹介。短いので頑張って全文掲示します。
以上です。高現米貳百石 呉服師 後藤縫殿丞
後藤 松林
一 先祖、権現様三州岡崎御在城被為成候時節、御呉服御用、其他御内證御使御奉公奉相勤候、二代目後藤源左衛門忠正儀は、島津○○守弟長徳倅に而、永禄四年五歳の時、於駿州権現様上意に而、松林養子仕候、親松林御奉公仕候御由緒を以、源左衛門代従権現様御切米現米貳百石拝領仕候、其上源左衛門惣領後藤長八郎忠直、天正十二年遠州浜松に而出生、十二歳の時台徳院江被召出、御小姓御奉公仕、慶長五年信州上田城主真田安房守反逆、石田三成反逆の節御出陣の供奉仕、忠直始終不奉離御側、若年に候得共軍功有之候に付、御帰陣以後相州瀬谷領地拝領仕候、同八年病死仕、遺跡源左衛門三男清三郎言勝江被下置、慶長十年台徳院様江被召出、大坂寅卯両度の御陣供奉仕、其後大猷院様江被召出、上総国大多喜領○両所知行五百石拝領仕候、
権現様より先祖源左衛門拝領物、今以所持仕候
一 丸壺御茶入
一 若狭盆
右の外、品々拝領物度々焼失仕
一 往古御上洛の砌、御装束御道具類品々奉預、京都二條御城内御蔵江相納、に今支配仕、毎年御城内江罷出、虫干仕候、勿論御所司代御り御○中御引渡の節、御立会に而御見分御座候、
但、右の内御装束は、延宝六年御殿番三○市郎兵衛方へ相渡申候、
台徳院様、江戸御城入の御時より、御本丸御広敷江、私先祖より御出入被為仰付、今以相違し無御座候、尤御広敷御掛板、御奉書の末に、私御記御座候、元和三年練御小袖被仰付候付、伏見於御城、白糸十七丸奉請取縫立共出来、奉指上候、崇源院様、天樹院様、大姫様、高同様御召并御道呉服共、私方より指上申候、勿論御代々御台様、姫君様方、御部屋様方御召御呉服御用、古来より奉相勤候、
一 東福門院様ご誕生の節は不及申、元和七年御入内の節、御式正御呉服御用相勤、并従京都江戸表にて御方々様江被為進物、并御女中方御留守居方江被下御時服其外共、都而私方江被仰付奉寵臣候、大猷院様竹千代様と奉称候節、御局春日殿、三代目縫殿允益勝江被仰候は、竹千代様御不自由被遊御座候間、御内證諸御用の御賄共承候様被仰、其節御諸懇の被仰渡茂有之、御用御奉公に奉相勤候、
一 寛永四丁卯年九月四日口宣頂戴仕候写
口宣案
上卿 日野大納言
寛永四年九月四日 宣旨
藤原益勝
宣任縫殿允
蔵人頭右近衛権中将藤原基○
右口宣案今所持仕候、
1節目では、以前拙HPのこちらで紹介したように、島津長徳の息子が後藤松林(少林)の養子となったことが書かれています。私が参考にした資料では養子先の後藤家のことが全く分からなかったのですが、「由緒書」によるとどうも徳川家の譜代の旗本のようですね。蛇足ですが島津長徳の出自について「島津○○守弟」と欠字になっているのが興味深いです。もしかしたら元史料の虫損じゃなくて、本当に伏せ字だったのかも。譜代の旗本の実家が外様の大大名となるといろいろやばそうですから。
2節目~最終節では、そのような譜代の侍がなぜ呉服師という商人になっていったのかを説明しています。当初二条城にあった将軍家の衣裳の管理をしていたのですが、それがきっかけとなって大奥に収める着物を扱うようになり、商人へと転じていったようです。
しかし、巻頭に書かれているように幕府からは「200石」という領地も拝領しており、半士半商という妙な立場だったのでしょうか?この辺り、私は幕府御用商人というのが余り分からないので何とも言えませんが…。
「後藤庄三郎由緒書」「呉服師由緒書」を所収した『徳川時代商業叢書』の前書き(緒言)では、その後の後藤縫殿允(縫殿助)家についてこう説明しています。
江戸時代に繁栄した呉服屋の多くは、明治以降は百貨店業に転じたところが多いように思うのですが(越後屋→三越、松阪屋、伊勢丹、高島屋、大丸など)、後藤家が百貨店業に転じたという話は存じません。おそらく幕府御用商人という立場から考えて、明治維新と共に没落したのでしょう。後藤縫殿介は世に呉服後藤と称へて金座後藤と区別す。其子孫今も東京に在りて「竹千代様家光御内證御申御賄共承候様被仰御諸懇の被仰渡義有之」し時の書類等を伝承せり。故に家光襲職の後は大に勢力を得て永く其家繁栄せり。其旧地は一石橋を隔てて金座後藤と相対せり。
前回の話はこちら
タイトルに掲げた「後藤庄三郎由緒書」と「呉服師由緒書」は『徳川時代商業叢書』第一(国書刊行会)に所収されています。
「後藤庄三郎由緒書」は徳川幕府御用達の御金改役を代々勤めていた商人・後藤庄三郎家の歴史を書いた物です。歴代当主の説明が10代目庄三郎で終わっており、日付を「寛政十年六月」(1798年)としているところから、この頃に成立したと考えられます。ちなみに初代庄三郎は角倉了以、茶屋四郎次郎と並ぶ徳川家御用商人でした。
「呉服師由緒書」はやはり徳川幕府御用達の呉服屋、後藤縫殿允・後藤松林家(松林家は縫殿允家の分家)、茶屋四郎次郎家の3家の由緒書をまとめた物です。こちらは年記がないため成立時期ははっきりしませんが、記述内容で最も新しい物が徳川家光の話で「大猷院様」と法号で書かれているところから考えて、4代将軍家綱の頃が成立の下限と思われます。
なお「後藤庄三郎由緒書」は「視聴草」所収「後藤家由緒書」とほぼ内容は同じです。
「後藤庄三郎由緒書」では後藤庄三郎家の起源について
ちなみに上の文章を見る限りでは、大橋局は青山正長なる人物の娘で、使えていたのは徳川家康のようです。
「呉服師由緒書」は「後藤庄三郎家由緒書」より文章量も少なく、簡略な内容です。
全文提示しますので、項をかえて続けます。
タイトルに掲げた「後藤庄三郎由緒書」と「呉服師由緒書」は『徳川時代商業叢書』第一(国書刊行会)に所収されています。
「後藤庄三郎由緒書」は徳川幕府御用達の御金改役を代々勤めていた商人・後藤庄三郎家の歴史を書いた物です。歴代当主の説明が10代目庄三郎で終わっており、日付を「寛政十年六月」(1798年)としているところから、この頃に成立したと考えられます。ちなみに初代庄三郎は角倉了以、茶屋四郎次郎と並ぶ徳川家御用商人でした。
「呉服師由緒書」はやはり徳川幕府御用達の呉服屋、後藤縫殿允・後藤松林家(松林家は縫殿允家の分家)、茶屋四郎次郎家の3家の由緒書をまとめた物です。こちらは年記がないため成立時期ははっきりしませんが、記述内容で最も新しい物が徳川家光の話で「大猷院様」と法号で書かれているところから考えて、4代将軍家綱の頃が成立の下限と思われます。
なお「後藤庄三郎由緒書」は「視聴草」所収「後藤家由緒書」とほぼ内容は同じです。
「後藤庄三郎由緒書」では後藤庄三郎家の起源について
と説明しています。大膳大夫大江広元弟武蔵守大江親広後裔、美濃国加納城主長井藤左衛門利氏曾孫上意を以氏を改め後藤少輔三郎又少三郎共庄三郎共認る
その後延々と後藤家歴代がいかに徳川家の興隆に貢献してきたかが語られているのですが、注目すべきは後藤家が徳川家のご落胤を当主としたとほのめかすような記述があることでしょう。
はっきりとは明言していませんが二代目・広世(廣世)が商人の息子でありながら家康から家光まで3代の将軍に近侍したこと、老中・酒井忠世という重要人物を烏帽子親として元服したこと、様々な拝領物をもらったこと、今川家→徳川家→後藤庄三郎家→徳川家と伝わったという「貴子鏡」なる宝物の逸話などをまじえ、「尤右廣世出生等之儀、至而恐多儀も申傳候」(広世の出生については恐れ多いことを伝え聞いているので)などとひじょーにうまいことを言って「書面に相認不申候」(確認できる資料は持ってません)とごまかしています。しかし同じ由緒書きでこのことを二回も強調しているところから見て、「将軍家のご落胤を身ごもった大橋局を引き取ってやった」という秘密を握っていたことが、後藤庄三郎家が長年に渡り「幕府御金改役」という特権を握れた理由であったことは間違いないと見てよいのではないでしょうか。庄三郎光次妻儀者、青山善左衛門正長娘、権現様上意以縁組仕候、然上大橋局と申を妻に被下置、其腹に出生仕候男子、二代目庄三郎に而、元和二年、御老中酒井雅楽頭忠世烏帽子子として、忠世宅に於て元服仕、廣世と相名乗申候 但、庄三郎廣世出生仕候譚、申傳之儀御座候得共、恐多筋も御座候間、書面に相認不申候
(中略)
二代目庄三郎廣世出生仕候儀、申傳有之候得共、恐多筋故相認不申候段本書に有候譚者、廣世母は、権現様御世大奥相勤大橋局と申し候処、光次江被下候、其以後間もなく男子出生候所、御内々申上候趣等、品々申傳候儀御座候へ共、恐多儀も相聞候間、書面に相認不申候
(中略)
右之外、承傳候者、生貴子鏡と申候鏡、古来駿州江唐船着之頃持渡り、今川家之手に入候、右鏡を常々見候婦人者、必男子を出産仕候由に而、重い器に御座候所、権現様御手に入有之、大橋儀大奥相勤候節右鏡奉預り、其後光次江大橋を被下候処男子出産仕候、則前書に相認候二代目庄三郎廣世に而御座候、且又右貴子鏡拝領仕持傳候所、文昭院様御代差上候様被仰付、月光院様御勤中被下候由に御座候得共、数度之類焼に而書留類焼仕候、尤右廣世出生等之儀、至而恐多儀も申傳候間、前々より書留など憚候儀と相見申候、且只今之常盤橋、古来者大橋と唱候由、廣世母名前大橋と申候儀も、御側相勤候故之儀に御座候哉、又者光次江被下候以後、伺御機嫌等に罷出候節大橋と被召呼候哉、名前者いわと認候覚書も有之候間、右推察之趣も御座候哉、尤大橋儀老後に剃髪仕、栄長院と申候、慶安五年五月廿九日病死仕候
(後略)
ちなみに上の文章を見る限りでは、大橋局は青山正長なる人物の娘で、使えていたのは徳川家康のようです。
「呉服師由緒書」は「後藤庄三郎家由緒書」より文章量も少なく、簡略な内容です。
全文提示しますので、項をかえて続けます。
今回紹介する史料は、ネットではおそらく初めて紹介される物かも知れません。
珍しいのも当たり前で、昭和30年代に発行された『大根占町誌』という地方自治体史に掲載された物で、おそらくこれ以外の本で所収しているものはないと思います。
この「取り志ら遍帳(取り調べ帳)」を作成した享和3年(1803年)は、島津重豪の命により、藩内のいろいろなことを調査した本を多数作成した時期に当たり、この取り調べ帳もその調査の一環だったと思われます。
この中に興味深い一節があります。
ただし、かつて再建したときに使われた棟札が何枚か残っているようで、その写しが『大根占町誌』にのっていました。但し、文章を見ると棟札自体が当時の物ではない可能性もあり、注意が必要かと思います。
棟札1
※島津氏は島津家久(忠恒)以前は「藤原氏」を公称していた。
しかし、これらの棟札が何もないところから作られた偽作かというと、そういいきれない部分があります。
まず棟札1に出てくる「飯牟礼権右衛門尉藤原光家」ですが、江戸時代後期に書かれた戦国~江戸初期島津家臣人名事典「本藩人物誌」に出てくる「飯年礼紀伊介光家」と同一人物と思われます。「本藩人物誌」によればこの人物は
次に棟札2,3に出てくる「町田権右衛門」「町田権右衛門尉忠秀」ですが、島津忠将の家老で廻山の戦いで戦死した町田忠成の息子と思われます。しかし、戦国時代末期~江戸時代初期の人物でありながら何故か彼は「本藩人物誌」に記載されていません。町田本家当主・久幸が寛永元年(1624年)に跡継ぎ無く死去した後に島津家久(忠恒)から末期養子を迎えようとした町田本家(おそらく首謀者は久幸の実母の高崎氏)と対立し、町田家の血縁から跡継ぎを出すよう主張したため、その後日陰の立場になったと思われます(参考『鹿児島県史料 家分け5「町田家正統系図」』概説)。ちなみに忠秀は島津義久付き、義久の没後は亀寿付きとなり、子孫はそのまま国分郷士となっています。先述の家督争いで忠秀が敗北したのも、バックとなっていた義久が既に没し、亀寿が家久(忠恒)の正室から追放されていたのが一因となっていることは想像に難くありません。
ともかく、町田忠秀も飯牟礼(飯年礼)光家と同じ亀寿付きの家臣であったのは確かです。
棟札1,2を見ると最初に出てくる名前が「源家久」こと島津家久(忠恒)なので家久の命により光久のことを願って寄進されたように見間違えてしまいそうですが、実際の建立に関わった人物の名前を見ても亀寿の命によって光久の今後を願い寄進されたことは確実でしょう。
しかも棟札4を見ると、亀寿の後をついで光久も寄進を行っています。今回は省略しましたが、その後も歴代の藩主により河上大明神に寄進が行われていることが棟札の記録から判明します。河上大明神は亀寿と光久、そしてその子孫の繁栄を祈願する神社となっていったのです。
実はここで解決できない疑問があります。
亀寿はなんで住居(国分城)の近くにある神社ではなく、この河上大明神に光久の将来を祈願したのか、という謎。
当初私はこの河上大明神のある場所が亀寿の私領の一つなのではないかと予想したのですが、管見ではそれを証明するような史料が見あたらないのです。「旧記雑録後編」3-660や5-516で現在のいちき串木野市とか霧島市、肝付町に私領があったのは判明してしたのですが錦江町に私領があったことを示す史料がない。うーむ…。
珍しいのも当たり前で、昭和30年代に発行された『大根占町誌』という地方自治体史に掲載された物で、おそらくこれ以外の本で所収しているものはないと思います。
この「取り志ら遍帳(取り調べ帳)」を作成した享和3年(1803年)は、島津重豪の命により、藩内のいろいろなことを調査した本を多数作成した時期に当たり、この取り調べ帳もその調査の一環だったと思われます。
この中に興味深い一節があります。
「河上大明神」とは、現在鹿児島県肝属郡錦江町(旧大根占町)にあるこの神社を指すと思われますが、現在古い建物などは全く残ってないようです。一.河上大明神
(中略)
御祭米等有之候儀 亀寿様より光久公御武運為御長御取立被造候由申伝候
(後略)
ただし、かつて再建したときに使われた棟札が何枚か残っているようで、その写しが『大根占町誌』にのっていました。但し、文章を見ると棟札自体が当時の物ではない可能性もあり、注意が必要かと思います。
棟札1
棟札2奉再興河上大明神宮殿一宇元和第九暦癸亥八月二十六日入神護持佳心三州太守島津薩摩守源家久朝臣 大施主三州太守源義久卿御息女亀寿公罷成当代官飯牟礼権右衛門尉藤原光家(以下略)
棟札3奉造立河上大明神鳥居一宇 寛永四暦丁卯九月四日護持佳心三州太守島津薩摩守源家久朝臣 大施主三州太守源義久卿御息女亀寿公当代官町田権右衛門
棟札4奉造立河上大明神鳥居一宇寛永四年丁卯八月彼岸日
右造立者奉為護持信心大施主前三州太守源義久公息女亀寿公辛未御男子源忠元公御息災延命御子孫連緊明神擁護昼夜不変風雨復時五穀成熟国家安全万民扶楽必中御願皆令満足而之仍意趣如右当地頭町田権右衛門尉忠秀
棟札1、棟札3を見ると、本来「藤原義久公」となってなければいけない部分が「源義久公」となっており、島津光久以降の頃に作られた物であることは明らかです。奉再興河上大明神御安殿一宇
慶安弐己丑八月吉日護持信心大檀那三州太守光久公地頭和田讃岐政貞
※島津氏は島津家久(忠恒)以前は「藤原氏」を公称していた。
しかし、これらの棟札が何もないところから作られた偽作かというと、そういいきれない部分があります。
まず棟札1に出てくる「飯牟礼権右衛門尉藤原光家」ですが、江戸時代後期に書かれた戦国~江戸初期島津家臣人名事典「本藩人物誌」に出てくる「飯年礼紀伊介光家」と同一人物と思われます。「本藩人物誌」によればこの人物は
とあり、亀寿付きの忠臣の一人であったことが伺えます。竜伯様へ御奉公国分江罷在候御他界前吉田六郎右衛門入道(清長)ヲ以被仰聞候ハ紀伊介伊地知勝左衛門儀ハ国分様江御遣セラレ候左候テ紀伊介末田主馬允皿良善助事ハ御行水之時参候間誰人ヲモヨセ付間敷由被仰付候間如御意其御涯之御奉公三人ニテ相勤候
(以下略)
次に棟札2,3に出てくる「町田権右衛門」「町田権右衛門尉忠秀」ですが、島津忠将の家老で廻山の戦いで戦死した町田忠成の息子と思われます。しかし、戦国時代末期~江戸時代初期の人物でありながら何故か彼は「本藩人物誌」に記載されていません。町田本家当主・久幸が寛永元年(1624年)に跡継ぎ無く死去した後に島津家久(忠恒)から末期養子を迎えようとした町田本家(おそらく首謀者は久幸の実母の高崎氏)と対立し、町田家の血縁から跡継ぎを出すよう主張したため、その後日陰の立場になったと思われます(参考『鹿児島県史料 家分け5「町田家正統系図」』概説)。ちなみに忠秀は島津義久付き、義久の没後は亀寿付きとなり、子孫はそのまま国分郷士となっています。先述の家督争いで忠秀が敗北したのも、バックとなっていた義久が既に没し、亀寿が家久(忠恒)の正室から追放されていたのが一因となっていることは想像に難くありません。
ともかく、町田忠秀も飯牟礼(飯年礼)光家と同じ亀寿付きの家臣であったのは確かです。
棟札1,2を見ると最初に出てくる名前が「源家久」こと島津家久(忠恒)なので家久の命により光久のことを願って寄進されたように見間違えてしまいそうですが、実際の建立に関わった人物の名前を見ても亀寿の命によって光久の今後を願い寄進されたことは確実でしょう。
しかも棟札4を見ると、亀寿の後をついで光久も寄進を行っています。今回は省略しましたが、その後も歴代の藩主により河上大明神に寄進が行われていることが棟札の記録から判明します。河上大明神は亀寿と光久、そしてその子孫の繁栄を祈願する神社となっていったのです。
実はここで解決できない疑問があります。
亀寿はなんで住居(国分城)の近くにある神社ではなく、この河上大明神に光久の将来を祈願したのか、という謎。
当初私はこの河上大明神のある場所が亀寿の私領の一つなのではないかと予想したのですが、管見ではそれを証明するような史料が見あたらないのです。「旧記雑録後編」3-660や5-516で現在のいちき串木野市とか霧島市、肝付町に私領があったのは判明してしたのですが錦江町に私領があったことを示す史料がない。うーむ…。