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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
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いや、先日行った病院の待合室にあった雑誌『日経大人のOFF』に書いてあったのですが

このコラムを書いたのは中村修也という方。雑誌の略歴では専攻は「日本茶道史」となっていましたが、検索で見ると古代史の方が本来のご専門のようです。

で、うろ覚えで書くヾ(^^;)中村氏による「千利休は生き延びた」説の根拠というのは
(1)晒し首にされたのが大徳寺山門にあった木像である 本当に切腹していたなら本物の首を曝すはず
(2)豊臣秀吉が文禄年間(この時利休は定説では死んでるはず)に母・なか(正確にはなかの侍女)宛てに送った手紙で「利休が点ててくれたお茶がうまかったんだよ~」(意訳)と言うことを書いている 現在の通説では「秀吉はここまでぼけていた」説の根拠にされているが…
…他にも書いてられたかも知れませんが、要点はこんな所だったかと。
また、中村氏説によると、その後の利休を養っていたのは細川忠興らしいです。

私個人の意見では、もし利休が生き延びていたら、その後日談を示すような記録も残っていてもおかしくないわけで(まして記録魔の忠興がかくまったことになってるんですからね~)中村説には同意しがたいのですが、学会ではどう受け止められてるのでしょうか。はてさて。

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事実なら手紙魔の・・
忠興が忠利に何も書き送ってると思うんですけど。

でも細川家ってとこが上手く逃げ・・ゴホン、ゲフン

細川家には未だ解読されていない文書が多数あるそうですから、
そう考えると、ちょっとロマンありそうな気がしてくる・・かな?^^;
時乃栞 URL 2013/12/04(Wed)20:09:02 編集
無題
こんばんは

中村修也氏に依れば、利休が忠興の元に逃げたとする根拠は、堺に左遷された利休をいち早く見送ったのが忠興であると言う事、この時にどさくさに紛れて利休を保護して領地にかくまったのだろう…ということなんですが。
見送ったのは忠興だけじゃなくて「へうげもの」もいたような記憶が ゲホゲホ

でも細川家って元名族とかびみょーな文化人(宮本武蔵とか)をよく召し抱えてますしねえ。
拙ブログのネタ元・島津家も元名族が転がってくる点では負けてはいないと思いますが(噂の豊○秀頼さんは除くことにしますw)
ばんない 2013/12/07(Sat)00:23:59 編集
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