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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
(天正12年陸月)十八日
(中略)
其後忠棟茶湯被成候、忠長/拙者也、忠棟御息増喜殿宮仕共候間、
(後略)
(「薩藩旧記雑録 後編」1-1427「上井覚兼日記」)
(天正11年参月)五日
(中略)
此日申刻計、忠棟より御茶一服被下候する由候侭参候、
(中略)
配膳者忠棟御子息増喜殿只一人にてめされ候、
(後略)
(「薩藩旧記雑録 後編」1-1367「上井覚兼日記 天正拾一年正月日記」)
今までコピーだけ取っていてこの辺をちゃんと読んでなかったので思いっきり見落としていたのだが
伊集院忠棟に「増喜」という名前のこんな息子いたのか?!
…いや、一次資料の「上井覚兼日記」だし、上井覚兼が嘘付いてるとかホラふいてるとかヾ(--;)何かを見間違っているという(しかも2回も)…ということはたぶんありえないので、忠棟には「増喜」という息子が天正11年~12年の時点ではいたということは確実なんだろう。
ちなみに上の史料では忠棟の御宿所での生け花(「立花」)や茶の湯などの私的な宴会に列席(ちなみに他の出席者には上井覚兼の他、恵玄という京都の人、島津忠長)、下の史料でも忠棟邸での茶の湯という私的な宴会に列席している(他の出席者は堀池宗叱、東雪、堀池弥次郎)。

伊集院忠棟の長男と言えば伊集院忠真(天正4(1576)~慶長7(1602))参考こちら がいるが、「庄内陣記」添付系図が間違ってないとすると、天正11年で忠真は数え7歳と言うことになり、上記で紹介した史料のような大人が居並ぶ茶会などに列席するかどうか疑問が残る。なので、この「増喜」は忠真とは別人なのではないだろうか。
また、「増喜」という名前にも疑問がある。伊集院家の通字は島津本宗家同様「忠」であるように思われる(棟の父は倉、祖父は朗、息子は前述の通り真)。が、「増喜」はこの通字をふんでいない。更に疑問に思われるのは、この名前自体、どうも出家名のようにも見えることである。この頃の「上井覚兼日記」では伊集院忠棟のことを「忠棟」と諱で呼び捨てしているのだが、その覚兼ですらこの増喜に対しては「御息増喜殿」等と敬称で書いているのも気に掛かる。

忠棟には忠真の上に長男がいたのだろうか?しかもその長男を出家させていた可能性もあるのだが、その背景にあった物はなんなのであろうか?

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