拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
神亀6年(729年)の正月、時の左大臣・長屋王は「皇太子をのろい殺した」という無実の罪で自殺、何故か正妻・吉備内親王(元正太上天皇・文武天皇の妹)と、その間に産まれた子供も後追い自殺しております。
この事件については、橘三千代の項で既述なので詳述は避けますが、ともかく!時の左大臣ともあろう者が、誰の弁護もなく自殺しなければいけなかったところに、この時代の深い闇を感じます。
この後に、聖武天皇の詔が出ていますが、その詔の中で聖武天皇は「伯母の元正太上天皇のおかげを持って滞り無く政治が流れている」(「どこが滞り無いんじゃ~!」とつっこみたくなるが)と言っておりますから、元正太上天皇も、この「長屋王の変」については黙認していた可能性が大!であると私はにらんでおります。
さて、実は長屋王は藤原不比等の娘をも妻にしていました。
名前は「藤原長娥子(ふじわら・ながこ)」。藤原安宿媛の異母姉にあたり、名前から藤原宮子の同母妹ではないか?と推定されています。
賀茂比売
│ ┌藤原宮子─―――──聖武天皇
├───┤ │
│ └藤原長娥子 │┌阿倍内親王
│ ├―――安宿王ら4人 ├┤
│ 長屋王 │└基親王(皇太子)
藤原不比等 │
│ ┌藤原安宿媛(光明子)
├────────―――─┤
│ └藤原 吉日(多比能)
│ ├──橘奈良麻呂
県犬養橘三千代─────―――葛城王(橘諸兄)
長娥子と、彼女と長屋王の間に生まれた4人の子供は連座を逃れますが、彼らは、おそらく藤原安宿媛に対して非常な恨みを持ったと思われます。なぜなら、この後安宿媛に対して「皇后」の地位が送られ、「長屋王の変」で結局一番得したのは彼女だったからです。
順番が逆になりましたが、この年の暮れに亀が発見されたことから(橘三千代の項で既述)年号が「神亀」から「天平」に変わります。実は、これも安宿媛を皇后にする”前振り”でした。
その後、藤原安宿媛を皇后とする詔が正式に出されるのです。臣下の娘から正式に皇后となったのは彼女が初めてでした。藤原安宿媛29歳。その美貌から「光明皇后」と言われるようになります。
光明皇后が一番最初にした仕事は、何と「貧民救済」でした。
父・藤原不比等はその功績から5000戸の食封をもらい、それはまだ給付されたままでした。このあり余る遺産を利用して、平城京にあふれる浮浪者の救済を行ったのです。
まず、皇后宮職(皇后の身の回りのことをする役所)に、薬を無料で配給する”施薬院(せやくいん)”が、次に藤原氏の氏寺の興福寺に、浮浪者に炊き出しを行う”悲田院(ひでんいん)”が作られます。
実は、今まで浮浪者問題が発生しても、その対策は場当たり的な物でして、まして皇族が自らその対策に乗り出すことはなかったのです。
おそらく、この発想は光明皇后の養育の土地・安宿郡などを中心に活躍していた行基の救済活動からヒントを得た物と思われますが、しかし…この活動は庶民の光明皇后人気に火を付けた物と思われます。
「光明皇后がおん自ら世話をした病人が観音に変化した」
などの伝説は有名ですが、これらの伝説は、光明皇后が庶民に支持を得ていたことの反映と思われます。
光明皇后の皇后擁立に不満があった人たちも、この状況では「ぐー」の字も出なかったでしょう。
これだけでも、光明皇后がただ者ではないことがお分かり頂けますでしょうか?
しかし、このような意欲的な行動とは裏腹に、光明皇后の私生活は寂しい物でした。
まず、光明皇后は亡くなった皇太子を最後に、2度と身ごもることはありませんでした。
しかも、母・橘三千代が天平5年(733年)に亡くなると、ショックからでしょうか。光明皇后は重病に陥ります。
更に追い打ちをかけたのは、天平9年(737年)に、聖武天皇が新たに3人の妃を迎えたことです(これについては牟漏女王の所で既述)。
しかも、実家の藤原氏がギクシャクしだしたのも、光明皇后には頭の痛い話でした。
が、そんななやみどころではない大事態が起こります。
この天平9年の春頃から天然痘が大流行し、光明皇后を支えていた実家の4人の兄(藤原武智麻呂、房前、宇合、麻呂)が全員亡くなります。
棚ぼた式に政府の筆頭に座ったのは、橘諸兄。光明皇后の父違いの兄であります。ところが!諸兄と光明皇后の中は、前に言ったように余り良い物ではありませんでした。
蘇我娼子<媼子>┌藤原武智麻呂(長男)
├─────┼藤原宇合(三男)
| └藤原房前(次男)
藤原不比等―藤原麻呂 |
| (四男) | ┌藤原安宿媛(=光明皇后)
├─―――――――――┤
| | └藤原吉日(多比能)
橘 三千代 │ │
│ ┌牟漏女王 │
├─────┤ │
│ └─────葛城王(橘諸兄)
美 務 王
実は、光明皇后が政治に積極的に口を出すようになったのはこのころからなのです。
兄たちの死が、彼女を歴史に残すことになったと言えば皮肉でしょうか?
つづく
この事件については、橘三千代の項で既述なので詳述は避けますが、ともかく!時の左大臣ともあろう者が、誰の弁護もなく自殺しなければいけなかったところに、この時代の深い闇を感じます。
この後に、聖武天皇の詔が出ていますが、その詔の中で聖武天皇は「伯母の元正太上天皇のおかげを持って滞り無く政治が流れている」(「どこが滞り無いんじゃ~!」とつっこみたくなるが)と言っておりますから、元正太上天皇も、この「長屋王の変」については黙認していた可能性が大!であると私はにらんでおります。
さて、実は長屋王は藤原不比等の娘をも妻にしていました。
名前は「藤原長娥子(ふじわら・ながこ)」。藤原安宿媛の異母姉にあたり、名前から藤原宮子の同母妹ではないか?と推定されています。
賀茂比売
│ ┌藤原宮子─―――──聖武天皇
├───┤ │
│ └藤原長娥子 │┌阿倍内親王
│ ├―――安宿王ら4人 ├┤
│ 長屋王 │└基親王(皇太子)
藤原不比等 │
│ ┌藤原安宿媛(光明子)
├────────―――─┤
│ └藤原 吉日(多比能)
│ ├──橘奈良麻呂
県犬養橘三千代─────―――葛城王(橘諸兄)
長娥子と、彼女と長屋王の間に生まれた4人の子供は連座を逃れますが、彼らは、おそらく藤原安宿媛に対して非常な恨みを持ったと思われます。なぜなら、この後安宿媛に対して「皇后」の地位が送られ、「長屋王の変」で結局一番得したのは彼女だったからです。
順番が逆になりましたが、この年の暮れに亀が発見されたことから(橘三千代の項で既述)年号が「神亀」から「天平」に変わります。実は、これも安宿媛を皇后にする”前振り”でした。
その後、藤原安宿媛を皇后とする詔が正式に出されるのです。臣下の娘から正式に皇后となったのは彼女が初めてでした。藤原安宿媛29歳。その美貌から「光明皇后」と言われるようになります。
光明皇后が一番最初にした仕事は、何と「貧民救済」でした。
父・藤原不比等はその功績から5000戸の食封をもらい、それはまだ給付されたままでした。このあり余る遺産を利用して、平城京にあふれる浮浪者の救済を行ったのです。
まず、皇后宮職(皇后の身の回りのことをする役所)に、薬を無料で配給する”施薬院(せやくいん)”が、次に藤原氏の氏寺の興福寺に、浮浪者に炊き出しを行う”悲田院(ひでんいん)”が作られます。
実は、今まで浮浪者問題が発生しても、その対策は場当たり的な物でして、まして皇族が自らその対策に乗り出すことはなかったのです。
おそらく、この発想は光明皇后の養育の土地・安宿郡などを中心に活躍していた行基の救済活動からヒントを得た物と思われますが、しかし…この活動は庶民の光明皇后人気に火を付けた物と思われます。
「光明皇后がおん自ら世話をした病人が観音に変化した」
などの伝説は有名ですが、これらの伝説は、光明皇后が庶民に支持を得ていたことの反映と思われます。
光明皇后の皇后擁立に不満があった人たちも、この状況では「ぐー」の字も出なかったでしょう。
これだけでも、光明皇后がただ者ではないことがお分かり頂けますでしょうか?
しかし、このような意欲的な行動とは裏腹に、光明皇后の私生活は寂しい物でした。
まず、光明皇后は亡くなった皇太子を最後に、2度と身ごもることはありませんでした。
しかも、母・橘三千代が天平5年(733年)に亡くなると、ショックからでしょうか。光明皇后は重病に陥ります。
更に追い打ちをかけたのは、天平9年(737年)に、聖武天皇が新たに3人の妃を迎えたことです(これについては牟漏女王の所で既述)。
しかも、実家の藤原氏がギクシャクしだしたのも、光明皇后には頭の痛い話でした。
が、そんななやみどころではない大事態が起こります。
この天平9年の春頃から天然痘が大流行し、光明皇后を支えていた実家の4人の兄(藤原武智麻呂、房前、宇合、麻呂)が全員亡くなります。
棚ぼた式に政府の筆頭に座ったのは、橘諸兄。光明皇后の父違いの兄であります。ところが!諸兄と光明皇后の中は、前に言ったように余り良い物ではありませんでした。
蘇我娼子<媼子>┌藤原武智麻呂(長男)
├─────┼藤原宇合(三男)
| └藤原房前(次男)
藤原不比等―藤原麻呂 |
| (四男) | ┌藤原安宿媛(=光明皇后)
├─―――――――――┤
| | └藤原吉日(多比能)
橘 三千代 │ │
│ ┌牟漏女王 │
├─────┤ │
│ └─────葛城王(橘諸兄)
美 務 王
実は、光明皇后が政治に積極的に口を出すようになったのはこのころからなのです。
兄たちの死が、彼女を歴史に残すことになったと言えば皮肉でしょうか?
つづく
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