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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
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前回検証では「藤原永手はロリk(以下自粛)」という余り世のため人のためにならない結論で終わったんですがヾ(--;)

では他の藤原氏メンバーのご結婚状況は如何だったんでしょうか。
やっぱ永手みたいにロリ…いやこの考えから早く解脱せねば
※何かの本で、この辺について吉川敏子氏が論文を書いてるとかいないとかいう話をチラ見した記憶があるのですが、ciniiで検索かけても見つからないので、かぶり覚悟で検討してみます。

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と言う事でまずは南家から。
南家の初代と言えば藤原不比等の長男・武智麻呂ですね。
主に『尊卑分脈』参照
妻(正室):貞媛 ※阿倍貞吉または阿倍真虎の娘、阿倍御主人の孫
 長男:藤原豊成(704-766)
 次男:藤原仲麻呂(706-764)
妻:正三位大納言朝麿女
 三男:藤原乙麻呂(?-760)
妻:阿祢姫 - 小治田功麻呂の娘
 四男:藤原巨勢麻呂(?-764)
生母不詳の子女
 女子:南殿(?-748)(聖武天皇夫人)
さすがは不比等の長男、妻はええ所のお嬢様が多いです(^^;)

長男・豊成と次男・仲麻呂を生んだ阿部貞媛が最初の妻と考えられます。この時代にしては珍しく妻の実名が判明していますが、これは『公卿補任』天平9年条にのっているから。ちなみに舅の阿倍貞吉(真虎?)というのは同時代史料に出てこないので若くして亡くなったと推定されますが、義祖父の阿倍御主人は持統天皇・文武天皇の時代に右大臣になっています。うーむ、せ・れ・ぶヾ(--;)

三男の乙麻呂を生んだのは『尊卑分脈』では「正三位大納言朝麿女」と書かれています。ところがこの時代に「朝麿(朝麻呂)」という名前の大納言はいない!そこで、乙麻呂の年齢から逆算…え、生年不詳_(。_゜)/。なので更に推測してみます。乙麻呂の史料の初見(『続日本紀』天平9年従六位上→従五位下3階越階)から見るに、乙麻呂は藤原永手と同じ年齢かやや上ぐらいかと(※奈良時代の場合、庶子(次男以下)は昇進が遅れ気味になる傾向があります)。で、永手が生まれた714年頃の正三位大納言で「麻呂」がつく人というと
・紀麻呂(慶雲2年(705年)7月19日薨去(大納言兼中務卿正三位))
・大伴安麻呂(和銅7年(714年)5月1日薨去(大納言兼大将軍正三位))
・阿倍宿奈麻呂(養老4年(720年)1月27日薨去(大納言正三位))
年代としては大伴安麻呂か阿倍宿奈麻呂の可能性が高そうですかねえ。「あさまろ」と「やすまろ」「すくなまろ」発音似ているような似てないような。
で、「正三位大納言朝麿」さんが紀麻呂か大伴安麻呂か阿倍宿奈麻呂かはっきりしないんですが、どちらにしてもかなり身分の高い父親ですので、乙麻呂の母は側室とは考えづらいです。阿部貞姫が死んだ後に継室になったのかも。

四男・巨勢麻呂の母という小治田阿祢姫ですが、阿部貞姫や朝麿女に比べると父の身分が一段低いです。父の小治田功麻呂の位は「勤大肆」と書かれていますが、これは天武天皇のころの官位でして、早くに父を亡くしていた女性だったことも伺わせます。また、前掲の『藤氏家伝』には藤原氏の家令(つまり執事みたいな物)に「小治田志毘」と言う人物がいたことも書かれていますし、ぶっちゃけていえば家来の娘に手を着けてしまった…と言う所でしょうか。

一番最後の「聖武天皇夫人・南殿」ですが、実は重要人物のはずなのに『尊卑分脈』には出て来ません。『続日本紀』に記載があるので存在が分かっています。が、聖武との間に結局子供を産まなかったためか、非常に影が薄いです…。
なお、武智麻呂の娘で存在が確認できているのはこの南殿だけのようです。



では引き続き、今度は武智麻呂の息子たちを見てみましょう。
まずは武智麻呂の長男・豊成から。
※主に『尊卑分脈』参照
妻:路虫麻呂の娘
 長男:藤原武良自(良因)
 二男:藤原継縄(727-796)
 三男:藤原乙縄(?-781)
妻:藤原房前の娘
 四男:藤原縄麻呂(729-780)
妻:藤原百能(720-782) ※藤原麻呂の娘
 ※子供無し
長男・次男・三男を産んだ路真人虫麻呂の娘ですが、路虫麻呂は同時代史料の『続日本紀』等には一切登場しない謎の人物。明治時代の系図研究者・鈴木真年氏によると敏達天皇の曾孫になるとか言う人物です。ただ、虫麻呂の父と推定されている路登美も従四位下で終わっており、祖父の石川王も終生吉備国在住の地方赴任で終了したという人のようなので、余り身分の高い女性ではなかったと考えられます。事実、長男~三男の出世のスピードは、四男・縄麻呂に比べてかなり遅いという指摘があります。この人は側室だったと考えて間違いないでしょう。
豊成の正室と推測されるのが、その四男を生んだ藤原房前の娘かと。但し、実際に豊成の正室として活躍したのは、後に女官最高位となった藤原百能(武智麻呂・房前の弟に当たる藤原麻呂の娘)です。ここから憶測すると、房前の娘は四男を生んだ後まもなく若死にし、後妻として百能を迎えたのではないかと。なお、百能と豊成の間には子供はいなかったようです。あの当麻寺の曼荼羅を造ったという伝説の女性・中将姫が二人の間の娘じゃないか?という説もありますが。
ちなみに豊成は藤原不比等→武智麻呂→豊成…と続く長男の嫡子の家系のはずなんですが、その子孫はふるわず没落したようです。豊成が後に弟・仲麻呂に排斥されて失脚して一時低迷したこともあるでしょうが、
・嫡男と目される四男・縄麻呂に子供がいなかったこと
・唯一まともに生き残った継縄の家系が、平安初期の伊予親王の変に連坐して失脚
したことが原因かと。

次は次男・仲麻呂(恵美押勝)ですが、これはものすごい研究があるので、それをそのまま引用
※「恵美家子女伝考」(『日本古代の貴族と地方豪族』薗田香融/塙書房 所収)参照
妻:藤原宇比良古(袁比良、?-762) ※藤原房前の娘
 三男:藤原訓儒麻呂(久須麻呂)(?-764)
妻:大伴犬養女
 六男:藤原刷雄
 十一男:徳一(749?-824?)
生母不明:
 長男:藤原真従(?-750年代前半?)
 次男:藤原真先(執弓)(?-764)
 四男:藤原朝狩(?-764)
 五男:藤原小湯麻呂(?-764)
 七男:藤原薩雄
 八男:藤原辛加知(?-764)
 九男:藤原執棹(?-764)
 十男:藤原真文(?-764)
 長女:藤原児従 ※藤原御楯室
 次女:藤原東子
 三女:藤原額
やっぱり仲麻呂の家系で特筆されるのは、実家にちょっかい出した?ねーちゃんヾ(--;)藤原宇比良古(袁比良)の存在でしょう。この人は最終的には正三位尚侍+尚蔵という女官の最高位になり、後宮を締めあg…じゃなくてヾ(^^;)、後宮の実権を握ったと考えられています。
なお、wikipediaでは仲麻呂の妻として、他に陽候女王(氷上陽候、新田部親王女)、紀奈賀岐娘(紀麻呂女)もあげていますが、実際の所『続日本紀』『尊卑分脈』等には記載がないので不詳。
あと、豊成と仲麻呂を比べると子供の数で仲麻呂の圧倒的勝利なのが一目瞭然。仲麻呂は長女の児依を義理の弟に当たる藤原御楯(藤原房前の六男)の妻にしたり、三男・訓儒麻呂の妻に皇族(山慢女王という女性らしい)を迎えてみたりします。しかしそれらの中でも一番とんでもない婚姻政策が、大昔紹介した「若死にした長男・真依の未亡人を大炊王という日陰の皇族に結婚させて、その大炊王を淳仁天皇というロボットに仕立て上げた」ことでしょう。

では仲麻呂はとっとと終了して次々ヾ(^^;) 三男・乙麻呂は以下の通りです
※主に『尊卑分脈』参照
妻:橘佐為の娘
 長男:藤原許麻呂
妻:石川連麻呂(建麻呂?)の娘
 次男:藤原是公(727-789)
生母不詳
 女:藤原今河(※藤原巨勢麻呂八男)室
長男を生んだ橘佐為の娘ですが、この橘佐為は橘諸兄、牟漏女王の兄弟に当たる人物です。藤原房前以外で県犬養橘三千代の系統と婚姻関係を結んだ藤原氏がいた、という点は興味深いところです。
次男を生んだ「石川連麻呂の娘」ですが、同時代史料では「石川連麻呂」という人物も「石川建麻呂」(※『尊卑分脈』で「連麻呂は建麻呂の誤字か」と補注がある)という人物もいません。謎。なお、石川氏は元「蘇我氏」で、藤原不比等の最初の正室が石川氏(蘇我氏)出身なのですが、その子供や孫世代で石川氏の女性を妻にしたのは、今のところこの乙麻呂だけですね…。
なお、『尊卑分脈』では上記の順番で書いてあるのですが、出世のスピードで見ると次男とされている是公の方がずっと早い(参考 従五位下任官年 許麻呂→宝亀元年、是公→天平宝字5年)事から見ると、実際は是公が長男で許麻呂は次男の可能性が高そうです。
ところでwikipediaでは許麻呂の母である橘佐為の娘=藤原是公の妻となって真友、雄友を生んだ橘佐為の娘=橘真都我と言う恐ろしいことが書いてあるんですが…どうなんでしょ?これがホントだったら是公はお父さんの奥さんをお父さんが死んだ後横取りしたということになりますがね…モンゴルじゃ普通にあったことのようですが、古代日本じゃどうなんだろうか余り前例がないような。

…怖くなってきたので、先を急ごう!_(。_゜)/ 四男・巨勢麻呂は以下の通り
※主に『尊卑分脈』参照
妻:山背王の娘
 次男:藤原黒麻呂(?-810)
妻:正四位上丹墀臣郎女
 男子(三男?):藤原長川
 五男:藤原真作
 男子(七男?):藤原今河(749-814)
 男子(九男?):藤原河主
妻:藤原宇合の娘
 四男:藤原弓主
妻:藤原永手の娘
 十男:藤原貞嗣(759-824)
妻:某女
 男子(八男?):藤原川合
 男子(十男?):藤原真書
 七男:藤原伊勢人(759-827)
生母不詳の子女
 男子(長男?):藤原瀧麿
 男子(五男?):藤原主後
 男子(六男?):藤原広河
見事に男子しかいない…というのはおいといて、同時代史料(『日本後紀』とか)に書かれている内容と『尊卑分脈』に書いてある順番と齟齬があるので注意する必要があります。
長男?かも知れない藤原瀧麿(瀧麻呂)と言う人ですが、この人は右大臣にまでなった大中臣清麻呂の娘を妻にしているので、実際に長男で嫡子だったのに早死にした可能性が高いです。名前から見ると黒麻呂と同母か、長/今/主と同母兄弟のどちらかかと。
次男・黒麻呂の母は山背王の娘と言うことですが、この山背王はなかなかの問題人物?でして、実はあの長屋王と藤原不比等の娘の間に生まれた皇子の一人でした。長屋王の変の後、日陰の人生を歩まされることになるのですが、橘奈良麻呂の変を密告したことで道が開け、その後皇族の地位を捨てて「藤原弟貞」と名乗っています。なおこの密告で山背王の兄たちは刑死or流刑の憂き目に遭ってます。恐ろしや。巨勢麻呂がそういう人物の娘を妻としていたのは興味深いです。
『尊卑分脈』で明記されているだけでも4人も子供を産んだという「正四位上丹墀(たじひ)臣郎女」ですが、これは多治比氏の別表記です。この頃の多治比氏で正四位上の人物というと
・多治比三宅麻呂(飛鳥時代後期~慶雲年間の人物、正四位上左大弁)
・多治比占部(養老年間~天平勝宝年間の人物、正四位摂津大夫)
のどちらかの娘と言うことでしょうか。多治比三宅麻呂とすると、養老6年(722年)に誣告事件で死刑になりかけた問題の人物なのですが、この事件は謎が多く、長屋王がでっち上げたという説(木本好信)もあれば、この三宅麻呂が死刑にならなかったのは首皇子を使った藤原房前の画策がある説(横田健一)もあり~の、というブラック事件でして、巨勢麻呂がそういう人の娘を嫁の一人にしていた(かもしれない)というのも興味深いです。
あと注目なのは同じ藤原氏から2人も妻を迎えていること。一人は叔父に当たる藤原宇合(藤原式家)の娘で、もう一人は従兄弟の藤原永手(藤原北家)の娘です。宇合の娘は同い年ぐらいでしょうか。ただ子供が一人しか伝えられてないことから推測するに、若死にしたのではないかと思います。永手の娘は前回もちょっと触れましたが、巨勢麻呂よりかなり年下で、間に生まれた貞嗣もおそらく『尊卑分脈』の記述通り一番末っ子だったと考えて良いかと。
ところで前回の考察では気が付かなかったんですが、巨勢麻呂は藤原仲麻呂の変で仲麻呂側に付いたために刑死しています。一方の永手は仲麻呂に敵対していたのですが、この娘と孫のことどう思ってたんでしょうか…貞嗣はこの後順調に成長して平安初期に高官になっているので無事助かったということになりますが、何かこの辺の心情は気になります。



南家の皆様を見てみると、総じて政治のキーポイントになっている人と婚姻関係を結んでいるのが分かります。
ただ、豊成のように結果としてうまくいかなかったり、仲麻呂のように自爆行為に走ったりヾ(--;)して、本来なら藤原氏の嫡家なのに衰退していったのではないかと。また、所生の女子が他家に比べると少ない様に感じられます。この辺も効果的に婚姻政策が取れなかった一因かも知れません。

実はこの南家で生き延びたのは意外なことに仲麻呂と心中した巨勢麻呂の系統なのです。武智麻呂の息子の中で一番若かったので、子供も仲麻呂の乱時には成人に達していない者が多く、うまーく連坐を免れたのが理由かと考えられます。うーむ、だから歴史はおもしろい。


…長くなってきたので今回はこれにて終了。
次回は北家(永手除く)の予定です。つづく~

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面白い特集ですね
このシリーズ全て読ませていただきました。私も一時期関心を持って調べたことでした。長くなりますが、南家について、以前のこともあわせて感想を。

阿倍貞媛と乙麻呂の母は、やはり武智麻呂の妻だった時期はかぶっていない様子ですよね。私が調べたときもそう思いました。乙麻呂が本当に同時叙爵の永手と同年代とすると、それ以前に、豊成・仲麻呂兄弟の母は亡くなっていたことに。仲麻呂がああなったのは幼くして母を亡くしたことも関係あるのかも。

乙麻呂の妻=是公の妻問題も気になって調べたことがありますが、実態はそんなに恐ろしくないかもしれません。調べた結果、乙麻呂の継室で許麻呂の母にあたる橘佐為の娘と、是公の妻となって真友、雄友を生んだ橘佐為の娘は別人で、姉妹という推定に至りました。
Wikipedia等では同一人物の如く扱われていますが、私が見た限り、同一人物とはっきり示す史料はないです。真都我が四女とある通り、橘佐為には娘が大勢いたので、姉妹でそれぞれ乙麻呂とその息子の妻になったと考えても不思議はないかと。
何と言っても、真友、雄友兄弟は生年を見る限り、2人ともまだ乙麻呂が存命の頃に生まれているので、「父の乙麻呂が死んだ後どころか、まだ存命のうちに是公が父の妻を略奪した」という事態になるので、やはり別人と考えた方が無難な気が。
ちなみに、続日本紀の橘奈良麻呂の乱後の橘氏の女性達の改姓記事に、聖武夫人の古那可智と真都我の間に挟まって宮子という名前の女性が登場します。もしや彼女が乙麻呂の?
乙麻呂は、身分が高いのに素性不明な母のこと、推定できる生年が息子の是公と近すぎることなど、謎が多く個人的に気になる人物だったりします。

巨勢麻呂の妻に関して、山背王の娘が次男の黒麻呂(とおそらく長男の瀧麻呂もか?)の母ということが私は気になりましたが、何とも思いませんでしたか?黒麻呂は「次男」ですし、同じ巨勢麻呂の子と比較すると、749年生まれの今河より約10年、759年生まれの貞嗣より20年も叙爵が早く、その生年は結構早い時期になりそうなんです。その外祖父にあたる山背王は一体何才?という疑問が湧いたのですが。
耕運機 2018/11/04(Sun)21:42:52 編集
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